● 宇佐神宮の祟りとは・・・

 宇佐八幡を焼き討ちにしたりするなど、八幡神を大事にしなかった人は死に際が悪いといわれている。歴史的に見てみると、寿永3年( 1184 )に緒方惟栄が宇佐八幡を焼いたが、そうしたら山で落馬して亡くなってしまった。源頼朝から関東の方に流されたが、平家討伐には大きな役をしているからと許しを受けた。しかし源義経に肩入れしてしまったのがよくなかった。そして帰ってきていたが、山側で馬から落ちてしまい、その際に亡くなってしまった。緒方の一族全員が関東まで行っており、また一緒に帰ってきて山側まで来たけれど、そこで一族の長が亡くなってしまったので、自分たちの長を祭ろうということでそこに居ついたようだ。そして一族全員が帰ってきたため山側には緒方姓が多い。今でも緒方の一族が惟栄の命日に毎年お参りに行っているようだ。大分の上野の八坂神社の横にも、緒方惟栄の碑というのが立っている。なぜそこに立っているのかはわからない。

  次に、永禄5年( 1562 )に大友宗麟が宇佐神宮を焼き討ちした。だから大友宗麟もいい亡くなり方をしていない。大友家は宗麟までは宇佐神宮を大事にしていたため、奈多八幡の宮司の娘を正妻にした。しかし宗麟は女癖が悪かったので、キリスタンになったことで、今度はその次女を側女にした。

 天正15年( 1587 )には、黒田考高に神宝刀剣を奪われたが、考高の子である長政が慶長4年( 1599 )宇佐神宮の二の御殿を完成させた。

 細川家は特に宇佐八幡を大事にしていた。

 

 

※このページは 大分大学 工学部 福祉環境工学科建築コース 木質構造研究室 の製作です

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