臼杵の街並みの歴史

 

豊後のローマ

  永禄5年(1562)九州探題職、豊築肥6カ国の守護職であった、大友義鎮は入道として宗麟と号し、臼杵の丹生嶋に築城して本居をそれまでの府内(現在の大分市)から臼杵に移した。当時の臼杵は7つの島が浮かぶ臼杵川河口のひなびた漁村であった。河口の湿地は埋め立てられ、唐人町などの町が築かれた。城の大手口から城下の中心を西方に大道を通した。大道の西はずれで町の入り口にあたる

  「市内最良の地所」には、アルメイダのたてた教会やノビシャド(修練所)、「それまでに日本で造られた中でもっとも立派な」教会が建てられた。町には、異国人があふれ、その繁栄ぶりは、境、博多にも匹敵し、「豊後のローマ」と呼ばれる国際都市であった。現在、畳屋町に「石敢当」の塔が残されている。この石碑は町に災禍が侵入することを防ぐ中国の神で、当時、明人によってもたらされたという。

近世の臼杵城下町

  慶長5年(1600)この年、関が原の合戦により、臼杵城主は太田氏に代わり、郡上八幡から稲葉貞通が5万石で入封した。この年オランダの東洋探検船デ・リーフデ号が臼杵湾に漂着する。航海長のウイリアム・アダムス(三浦按針)とヤ−ス=ヨーステンは、後に家康の外交顧問として活躍することになる。また、このころ臼杵はスペイン系修道士会のアウグスチノ会の日本における布教の本拠地となりスペイン船が入港するなど、再び海外との窓口となっていくが、鎖国対策の進行により、地方の一城下町となる。稲葉氏の城下町建設は、宗麟によって作られた町人町は、海岸部に、武家地は主として山手に置くといったパターンを踏襲するもので、その結果、中世以来の町の構造を今に引き継ぐことになった。文録3年の10町のうち、海添中町などの3町を武家地に、残り7町を移転、統廃合や埋め立てを実地して8町とし、町人町とした。さらに城下入り口にあたる平清水から山手の二王座にかけての要所に多くの寺院を配した。

東九州の浪花へ

  明治10年、西南の役が起こる。四国の土佐の士族と結ぶべく、四国との要路であった臼杵に侵入しようとした西郷軍に対し、旧臼杵藩主は臼杵隊を結成し戦うものの敗れ、町の西部が全焼し大きな被害を被った。

  商家の若手グループにより「臼杵商談会」が設立されたのは明治18年のこと。塩物市の開催をはじめ、幹線道路や港の修築、銀行の設立、日豊本線の誘致などが実施され、今日の臼杵経済の基礎が築かれた。その活況ぶりは「東九州の浪花」と称された。しかし、大分に県庁が置かれていたことなどにより次第に臼杵の地位は低下してくる。戦後は、古くからの味噌、醤油を中心とした醸造業と造船業による地方

  小都市として静かに時を刻んでいる。

 

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