おぜきあきら

    の

     修士論文


WARNING!!

本研究における論文並びにCGの無断転用は固くお断り致します。
なお、利用・使用に際しましてはおぜきあきらまで連絡の上、了承を得て下さい。



3次元コンピュータグラフィクスによる
Tony Garnier「工業都市」の可視化とその空間特性について

                            
目次

第1章  研究の背景と目的
第2章  研究の方法
       2-1 コンピュータグラフィックについて
       2-2 CGによる『工業都市』のヴィジュアル化
       2-3 地形データ作成に関する展開
       2-4 研究対象地域選定について
第3章  トニー・ガルニエ『工業都市』概説
       3-1 トニー・ガルニエ概説
       3-2 『工業都市』概説
第4章  『工業都市』構成施設詳細と各施設の分析と考察
       4-1 公共建築
       4-2 住宅建築
第5章  『工業都市』の空間特性についての分析と考察
       5-1 都市全体からによる場合
       5-2 市街地全体からによる場合
       5-3 各街路からによる場合
第6章  総括
       注釈
       参考文献
       謝辞

補足資料
       トニー・ガルニエ年譜
            原著図版内容参照表



第1章 研究の背景と目的

 今日,世界の各所に点在する都市には多くの人々が居住し,幾多の経済・環境・生活のサイクルが起きている。
現代においては特に都市部がその国の経済の中枢を担っている場合がほとんどで,都市機能の充実はその国の繁
栄にもつながり,各所で開発と整備が頻繁に行われている。
 我が国は第二次大戦時,戦災により都市の大部分が焦土と化し,戦後各都市は復興計画によってその基盤を戻
した。その後,高度経済成長華々しい1960年代後半から1970年代半ばは様々な都市計画の試みによってニュータ
ウンが造られ,そして先頃のバブル景気による乱開発の末,現在に至っている。経済成長も安定期を迎え,落ち
着きを見せはじめた今日の日本では,意識改革から人々は生活にゆとりを抱くようになり,そしてそれを満たす
べく新しい都市計画・地域計画の考えが芽生えはじめ,また実践されはじめた。今までの産業発展のための都市
計画とはその主旨に違いを見せ,これからは新しいまちづくりによって我が国も一層魅力あるまちが増えていく
だろう。
 人は人生という与えられた時間を使って成長してゆく。都市には時間という制限はないけれども,都市が都市
であるために終わり無き成長をしてゆく。これからも続く都市計画においてその方向性を考えたとき,この時期
にもう一度初心に返って都市の在り方を根本から探り直す必要性があるのではと感じた。そもそも都市の条件と
は何であるか。都市には何が必要であって,現代の都市の出発点はどこであったのか。私は,19世紀以前の単な
る思想的な理想都市から脱した都市計画である今世紀初頭の近代都市計画の考えを研究してみようと思った。
 本研究では,今世紀初頭フランスで活躍した建築家であり都市計画家のトニー・ガルニエが提案した『工業都
市』において,実在しないその架空の都市を3次元コンピューターグラフィックス(本論文では以下3DCGと
略す)という仮想の空間の中で,図面とスケッチでしか表現されなかった計画案を立体的に表現することを第一
の目的としている。そしてヴィジュアル化された都市に対し,各要素の特性と構成された都市についての特性,
ゾーニングの理論を用いて考えられた近代最初期の都市計画であるこの計画を空間構造から分析・考察すること
を第二の目的としている。


第2章 研究の方法

 本研究においては,まず最初にこの『工業都市』を構成する地形と各建築物をプログラミングと3DCGによ
るモデリングで作り上げ,それら統合データによるレンダリングによって当該都市をヴィジュアル化する。そし
て都市構成各施設に関してのCGによる分析と考察を行い,また都市全般に関しても図版やCGを用いて分析と
考察を行う。これら分析により,この『工業都市』の特性・特徴をふまえた上で現在の都市とのつながりや相違
点を探ることで研究を進めている。
 次章で概説を述べた後,『工業都市』の建築・都市空間特性について述べることとする。

2-1 コンピュータグラフィックスについて

 近年におけるコンピュータグラフィックス(CG-Computer Graphics)は,CPU(Central Processing Unit)
の高性能・高速化や,ハードディスク(Hard Disk)・メモリ(Memory)の大容量化,高解像度のCRT(Cathode 
Rey Tube)の登場と周辺機器の進歩等により,以前より快適にかつ高度な技術にも対応できるようになってきた。
 それに伴い情報化社会の現代の中で,CGの果たす役割も大きくなってきたと言える。娯楽・教養・放送・産
業・ビジネスなどの多岐にわたる分野において幅広く使用され,我々の生活に対する密着度は年々増す傾向にあ
る。また、その精度もかなり高いレベルまで達しており,バーチャルリアリティ(Virtual Reality−仮想現実)
の世界へも足を踏み入れつつある。建築の分野においては、視覚による疑似体験としての役割が大きく,特に建
築計画や都市計画の分野において,CGによるシュミレーションは,良い建築・良い都市をつくるための検討手
段として大変有効と言え,特にプレゼンテーションの面からも景観シュミレーションを動画にしたアニメーショ
ンや,インターネット上で3次元疑似体験が出来るVRML(Virtual Reality Modeling Language)技術などの必
要性は益々高まってくるだろう。建築計画や都市計画において,構想の段階からそれぞれの意図を明確に示し,
広く意見を求めていくことは大切なことであり,この点においてCGやアニメーション及びVRMLは大変有効
な方法であると言える。

2-2 3DCGによる『工業都市』のヴィジュアル化

 ここではコンピュータグラフィックスを用いた『工業都市』のヴィジュアル化を行うにあたり,用いたソフト
や手法,作業の流れを説明する。
 著書『工業都市』を元にこの都市を作り上げるために,ここでは2種類のハードウェアと2種類のソフトウェ
アを使用した。ハードウェアについては,都市全体を取り囲むの地形をデータ化するためにHEWLETT PACKARD社
のUNIXワークステーションHP825を,その後建築物データのモデリング作業,統合データのレンダリング作業に
はDOS/Vパーソナルコンピュータ(Windows-OS,Pentium100〜200Mhz)を使用し,ソフトウェアについては,3
次元モデュラーレンダリングツール「サイクロン Solid Version 3.0」(株式会社 光栄)を常時使用した。
このソフトは,Windows3.1,Windows95,Windows NT3.51上で動作する,3次元モデリングツールである。立体
図形を作成するだけでなく,感覚的な作業によっても成形することができる機能も持ち合わせ,非常に高度なコ
ンピュータグラフィックス画像の作成を実現することが出来るソフトである。また,出力されたCG画像を補正
・修正する際は,PC上でペイント系ソフト「Photo Finish Version 3.1J」を用いて手直しし,仕上げた。
 今回,個々の建物のモデリングを行う際には、詳細なデータとボリュームだけの簡略なデータとの二種のデー
タを作成し,混同して使用した。これはCGで都市とそれを構成する建築物を表現するとき,実際には視点場か
ら目標物を捉えると,目標外の建築物がいわゆる背景としての役割を持つものへと変化してしまい,その結果本
来その建築物が持つ情報が見る者へ伝わることなく終わってしまう「人の感覚」に対することへの考慮と,アン
グル外のデータに要するレンダリング計算時間軽減の為である。そして,都市全体の雰囲気を伝達したい場合に
は,ある程度,精度の保ったデータで十分な情報が見る者には伝わり,把握出来るという考えから,その場合大
多数の建築物は簡素化したデータで構成されるものとした。
 次節で,地形データ作成に関する手法を説明する。

2-3 地形データ作成に関する展開(地形入力に関しての手法)

  まず最初に,『工業都市』全体を把握できる配置図(構成図)の縮尺を手が加えやすいように10,000分の1にす
ることとした。次にHPプログラムでデータ化するためにメッシュ引きを行ったのだが,地図からによる情報の
読み取りの限界上,その距離は南北辺.東西辺ともに1メッシュ100mでメッシュ化することとし,本10,000分の1
配置図にちょうど1センチメートル四方1メッシュで表現されることとなった。
 本配置図を分析した結果,南北方向は配置図をxy軸表現したときにy軸に対して20度マイナス方向に傾いて
いることが分かったため,先のメッシュ引きを行うときそれら結果を踏まえ,xy軸と東西南北軸がずれないよ
う合わせて配置図上に線引きをするかたちをとった。メッシュ引きの最初の基準となる点は住宅街区中心部に存
在する集会議場と思われるものの南に附属する時計台の中心を選んだ。
  そして,各メッシュの標高点(z軸)は左下隅(角)部を採って,UNIXワークステーションにおいて一つの標高
点に対し北側と東側,または南側と西側の計三つの点を結んだ三角形をポリゴンで表現するように作られたプロ
グラミングへ各点標高値を入力し,かつそれら対象を配置図全域に及ぼすことにより三次元地形ポリゴンデータ
を作り出す事とした。
  ここで,メッシュを方位方向に合わせることとしたため,実質的に配置図を20度右肩下がりにしたものを見る
事と同じことになった。そうした結果,メッシュを引いたときその四隅は配置図を包括するためには配置図の外
になり,メッシュデータの四隅の対象地形外領域はz=0とコンピュータに入力する事となった。
  便宜上,コンピュータへの入力のためにグリッド化した配置図のいちばん左下部分(南西部分)をxy座標の
(0,0)とした。なお,プログラムよって作り出された三次元地形ポリゴンデータはPCに移行させるときz=0が
一つでも存在するポリゴンは不要であるため,データをdxf変換させるときそれらポリゴンは消去された。同時に,
この工業都市内の河川水面は標高143mと統一されたため,ポリゴン数を減らしデータを軽くするためにも,三角
形ポリゴンの三点全てz=143であるものも消去された。そしてPCに移行されたデータにおいて河川を一ポリゴン
として作り,同データに組み込んだ。同様にダム湖のデータも上記と同じ方式をとった。PC上でdxfデータは,
サイクロンMoverという変換ソフトによりモデリング可能なshp形式の旧サイクロンデータに変換され,現サイク
ロンにて質感を与えren形式のデータとした。

2-4 研究対象地域選定について

 本研究では,対象地域選定に際し当該都市全域ではなく特に市街地とそれを取り囲む地形によってのみ研究を
進めることとした。そのことは,『工業都市』図版集よりその構成内容を把握したとき工業地区に関する記述は
全構成164図版のうち6図版と少なく全体比約3.7%にすぎない事実と,この『工業都市』が工業について語って
いる文献なのではなく単に近代産業における[工業]との関わりによってできる都市と人の住まう地域の提案で
あることが最大の理由となっている。


第3章  トニー・ガルニエ『工業都市』概説

3-1 トニー・ガルニエ概説

 トニー・ガルニエ(Tony Garnier)は,1869年8月13日フランスのリヨン,クロワ・ルス地区に生まれた。幼少
時代についての資料は残っておらず不明だが,14歳からラ・マルティニエール職業学校に通い,ここでは図画と
文筆に優れた学生であった。ラ・マルティニエール職業学校での図画の才能が,恐らくは職業学校で学業を終わ
らせるはずであったガルニエを進学させることになり,1886年から1889年までリヨンのエコール・デ・ボザール
で建築を学ぶようになる。ガルニエがなぜ建築を選んだかはわからないが,彼が早くから社会主義的な思想に傾
倒していったことなどから考えると,建築の方が絵画や彫塑よりも社会性に富んだものと映ったからと考えるの
が妥当であろう。当時,リヨンの建築家は,たいてい世襲の建築家ばかりで一般労働者家庭のガルニエにとって
建築家への道は大変不利であった。しかし,リヨンのエコール・デ・ボザールでもガルニエの成績は優秀で,数
々のコンペで賞を受けた後,20歳になった1889年にパリへ赴き,翌年,パリのエコール・デ・ボザールに入学す
る。「なにごとかを言い得るためには,私はまずローマ賞を獲得しなければならなかった。」という彼の言葉か
らわかるように,彼にとっての建築家への第一歩はローマ大賞を獲得することであった。ガルニエがその賞を得
たのはパリに来て10年後のことで,1899年終わりローマのヴィラ・メディチでローマ大賞給費生としての生活を
始めることとなる。そこでは,幾多の図面やスケッチと共に『工業都市』の原図となるべくものが描かれ,1918
年ついに出版される。1920年には「リヨン市大建設事業」を発表・出版するなど精力的な活動をし,数々の計画
案,実現作品は彼の偉業を後世に残している。
 トニー・ガルニエの『工業都市』は,時代を超えて受け入れられる,すぐれて包括的な計画案である。1918年
に出版された計画案はル・コルビュジエによって賞賛され,建築とプランニング理論に大いに貢献したものであ
り,また当時の文化状況と思想とを敏感に反映したものであった。都市を機能ごとに区分すること,工業を強調
すること,都市間のコミュニケーションを考慮することなどの計画上の特色は,近代都市計画の基本項目となっ
ていった。

3-2 『工業都市』概説

 トニー・ガルニエ『工業都市』は,正確には「一つの工業都市 都市建設のための研究」という表題を持つ本
によって提案された都市計画であり,1918年に初版がパリのオーギュスト・ヴァンサン社から出版されたことが
現在確認されている。この出版物は,ばらばらの図版を集めた二巻の本であって,それは計画内容を記した5ペ
ージ分の序文と164枚の図版から成っている。
 この『工業都市』は,人口を35,000人と想定しての計画案で,ハワードの田園都市の人口約32,000人とほぼ等
しい値であり,オーエンやフーリエの理想都市の人口約3,500人より10倍の人口であった。また,のちの1922年
ル・コルビュジエが発表した300万人の現代都市と比較するとこの案は二桁少ない規模であったということがわ
かる。この提案は規模から言えばやや19世紀的であるが,ガルニエは序文で「都市の一般的な性質を研究するた
めには小村や大都市よりも中規模の都市を設定するのがふさわしい」としており,人口の増加への対応にも触れ
ていることからこれに関する設定には問題が無いようである。おそらく,35,000人というのは当時のフランスの
地方都市の典型的な人口であったのだろう。
 計画の対象となっている地域は,東西12.3km,南北8.3kmの詳細な等高線を伴った極めてリアルな土地である。
しかし,市の境界線はなく,表現のリアルさにもかかわらず全く架空の想像上のものである。ただし,ガルニエ
は本書でこれをフランス東南部の都市としていて,モデルとした五つの都市をあげている。ルーヴ=ド=ジェ,サ
ン=テチェンヌ,サン=シャモン,シャッス,ジヴォールがそれら該当都市にあたり,いずれもリヨンの南近傍に
ある街で,シャッスを除いて市内をローヌ川やロワール川の支流が貫通している。また,ガルニエ自身はあげて
いないが,地形的にはスイス国境近くのベルガルトによく似ている。本対象地の地形は,北側を山に囲まれ,南
側を緩やかに蛇行する大きな河川があり,その河川の支流が東側を流れるといったもので,都市は川と山に挟ま
れた小高い丘陵地と二つの川の間の平地に展開している。南北に流れる河川の支流は,最北部でダムによりせき
とめられており、その水力発電施設は、動力・明かり・熱を工場・都市全体に供給しようとしている。
 次に都市施設の配置計画についてである。主要構成要素は,市街地,工業地区,保健衛生地区の3つである。
市街地は先述の小高い丘陵地にあり,東西約5.5km,南北0.6kmの細長い地区である。この市街地の中央が公共施
設の建つ市の中心であり,その両側(両翼)に住宅地区が広がっている。工業地区は二つの川に挟まれた三角形
の低地にあり,製鉄所をはじめとする工場群が整然と配されている。また川を引き込んで港を設けている。この
工業地区の存在が,この都市に「工業」という名を結びつけているのだが,それは「今後築かれるであろう新し
い都市の大部分にその基盤を与えるのは工業である」と序文に記されたガルニエの信念に基づくものである。そ
して三つ目の保健衛生地区は,市街地の北方の山を背後にした南向きの斜面に設けられている。これら三つの主
要構成要素は相互に離され,独立して置かれ,そこにはこれら配置が機能を分離するためと,将来の都市の拡大
を予期して残した二面性が見られる。この機能の分離による三つの主要構成要素という考え方に,アテネ憲章へ
の影響を指摘することが出来る。CIAM第一回会議のラ・サラ宣言の都市計画の項には,都市の基本的な機能
として「住まうこと,生産すること,休息すること」があげられており,アテネ憲章にも「都市計画が果たすよ
う努めねばならない三つの基本的な機能は,住まうこと,働くこと,休息する,である」という文章が採録され
ている。この都市の三つの機能は,三つ目が少しニュアンスを異するけれども,『工業都市』の三地区の意味と
ほぼ合致している。それに,後に見るように『工業都市』を積極的に評価した人物がル・コルビュジェであるか
ら,CIAMの都市計画の理念へのガルニエの与えた影響は大いにあり得るだろう。
 『工業都市』ではこれら三つの地区は路面電車で結ばれている。そして街と外部とを連結するのは鉄道であり,
主要駅は工業地区のすぐ北側に設けられ,また市街地の南方の川岸にも工場駅と市駅が設けられている。『工業
都市』には,これら三つの主要素の他にも上水道浄化場,下水処理場,屠刹場,パン焼き場,墓地,農場等が設
置され,極めて現実的な様相を呈している。特にこの都市のリアリティを増しているのが,古い市街地と古城の
ある公園の存在である。これはガルニエの歴史的感覚と現実的感覚をあわせたもので興味深いものである。
 しかし,通常の都市にあってここにはないものがある。それは,教会,兵舎,警察署,刑務所,裁判所と,酒
店,喫茶店,ダンスホールなどの娯楽場である。兵舎については,この都市の規模からいってないのが当然かも
知れない。ともあれ,これらの施設の不在には,ガルニエの無信仰,人間性善説,禁欲主義,社会主義的平和思
想などを読みとることが出来る。なお,序文に「今後,社会が土地を自由にし得ること,そして水,パン,肉,
ミルク,医薬品を取り扱うのも,これらのものが要求する様々な面倒の故に社会の仕事であることを我々は認め
た」とあるように,この『工業都市』は基本的に社会主義体制下に想定されている。


第5章  『工業都市』の空間特性についての分析と考察

 この章では,実際にヴィジュアル化した『工業都市』の3DCGや著書内の諸図版や序文を元にして,この
『工業都市』の空間特性について述べるものである。

5-1 都市全体からによる場合

 この『工業都市』はFig.1のようなゾーニングによって,その構成を見ることができる。主要構成要素は市街地
と工業地区と保健衛生地区の3つで,市街地は小高い丘陵地の東西5.5km南北0.6kmに及ぶ細長い土地にある。この
市街地の中央には公共施設が建ち並ぶシビックセンターがあり,その東西両翼には住居地域が広がっている。工業
地区は2つの川に挟まれた三角形の低地にあり,製鉄所をはじめとする工場群が整然と配され,また川を引き込ん
で港も設けてある。保健衛生地区は市街地の北方の山の中腹に存在する。これら3つの主要構成要素は互いに距離
を置いて配され独立した形を取っており,このことによる地区間の空地は完全な機能分離のためと将来の各地区の
拡大を予期してのことによるものである。
 これら3つの地区は路面電車で結ばれ,またこの都市と外部の都市は鉄道でつながれている。主要駅は工業地区
北側に設置され,市街地の南方に市駅が設けられている。この都市には3つの主要な要素の他にも屠殺場・墓地・
農場・ダムと発電所などが存在し,極めて現実的な様相を呈している。そしてさらに旧市街地や古城公園などの存
在は,この計画に一層のリアリティを与える要因となっている。現在のリヨンが伝統的な街並みを持つ旧市街と近
代的な高層ビルが林立する新市街で形成されていることから考えると,ガルニエも将来のリヨンの姿を予言して,
またこれからの都市の在り方はこうあるべきだと考えてこの『工業都市』を提案したのだろう。

5-2 市街地全体からによる場合

 この『工業都市』市街地部分は,Fig.2-1よりどちらかと言えば山の中腹に立地していることがわかる。地形的条
件によりこの対象地は必ずしも平坦ではないため,市街地南方は幾らか盛土的処理が施されいる。標高約370mに位
置するこの市街地は南方向の下方に大きな河川を望むことの出来る場所柄(Fig.2-2,3)で,市街地中心部の公園部
分と南側に存在する住宅地は,さながら見晴らし台の上にあるような感覚すら覚える(Fig.2-4)。都市全体を俯瞰
したとき,この都市はフランス流の長くて直線上の街路と焦点や軸線を用いた市街地構成に左右対称のシンメトリー
という伝統を保っている(Fig.2-5,6)が,パリの複雑でネットワーク状のプランニングに比べれば,この『工業都
市』の街路システムは幾分単純である。この提案のあった20世紀初頭には,ヨーロッパではプランニングの手法に二
つの主要な流れがあったものと見られ,ひとつはオースマンのパリ改造に見られるような伝統的に連綿として行われ
てきたプランニング,もうひとつはカミロ・ジッテ(1843-1903)が「広場の造形」の中で提案したインフォーマル
なプランニングであった。ガルニエは『工業都市』の全体計画において前者の手法採用したのだが,これは彼がフォ
ーマルなプランニングの伝統の中で育った人物であったからだけではなく,エコール・デ・ボザール出身の人間であ
ったことからも起因する。そして『工業都市』の時計台は,主要街路の中心に置かれ軸線のヴィスタ*3を受け止め
る焦点となっていおり(Fig.2-7,8),付け加えて言えば集会議場の特異なプランは軸線を強調するために考えられ
たものであるという可能性が大きい。また,斜めの街路が機能と無関係に通されているものは,先述のオースマンの
伝統を引く部分である。
 市街地の中心部には,図書館・資料館・劇場・公衆浴場をはじめとする公共施設があり,その両翼には線状に伸び
る街路と共に住宅街が碁盤の目に広がっている。ここで特徴的なものが市街地の中心にある時計台である。普通,ヨ
ーロッパの都市においてはその中心に教会がくることが普通で,中心にシビックセンターを置いたことは公共の福祉
を第一にし平等な社会を都市から作ろうとした現れによるものでもある。街路の軸を受け止める中心部のシビックセ
ンターはすべて大規模な建築によってできていて,特に中心の時計台は都市中心のアイマークとして,また集会議場
はこの地に強調を与えるものとして特異な形態を持つものとなった。
 初等教育のための学校は,住宅地区東西方向の3ないし4街区毎にひとつ置かれていて市域全体で9校設置されている。
この都市は約35,000人の人口を想定しているので,現代の校区と置き換えるとその学校の数は随分多い。
 市街地全体を見渡したとき,北東の方向に大きなダムを見ることが出来る(Fig.2-9,10)。これは,この都市がダ
ムの水力によって起きる電力の供給で成り立っていることを意味し,地場の産業である鉄鉱を工業地帯に取り入れて
いることや,農場や牧場が都市の周りを取り囲んでいることから考えると,この都市だけで自立・完結したシステム
を持つように設計されていることがわかる。全体計画の骨格についてはすでに述べたとおり,用途区分による明確な
ゾーニングによって地区が分離して造られ,そしてその各用途地区内は,市街地の中心部にあげられたような機能集
約型となっていることがわかった。この計画では,面的に広がる緑に市街地全域が覆われ,それらをつなぐ街路と『
工業都市』全体は,基本的に線上都市と集中型都市の利点を結合させる意図が見受けられた(Fig.2-11,12)。また,
市街地を通して見てみると,街並みは緑の中に埋没し,全体として公園状に扱われた。この計画の性格により,エベ
ネザー・ハワード(1850-1928)が「田園都市」の中で提唱した都市を保護するグリーンベルトのようなものをここで
は見ることはなかった。
 ガルニエは,この『工業都市』について将来にわたって市域の拡大があり得ることを前提にしており,市街地の四
方すべてに都市の拡大の余地があるこの土地を選んだことは,産業の多様化へ向けるフレキシブルな発想と,ここで
低層の住戸群からなる住居地区を提案することに対してのモチベーションとなっている。当時のヨーロッパの都市に
おける住居地区は,中層アパートメントハウスの林立による高密度な形成が一般的で,この『工業都市』の居地区は,
当時の都市計画の流れと全く違う低層の戸建て住宅による低密度な市街地構成であった。そのことは当時の都市計画
という分野においても画期的なものであって,この計画は人間にとっての快適な住環境を提案するものであったと考
えられる。

5-3 各街路からによる場合

 この節では『工業都市』市街地部分における無作為に抽出した6街路について,それら特定の環境下の特性を低い
視点から分析・考察する。
 なお本研究選定街路は,下図のA街路からF街路の6つである。

A街路付近
 複数の種類の住宅で構成されたこの街区は東側に開けた場所性を持ち,またそれが市街地全体を把握しやすい要因
となっている(Fig.3-a-1,2)。また東方に山の稜線を確認することができ,視野に入る緑の量は比較的多い。この
街路は,市街地中心部より直線で約2.7kmも距離をおいているので,中心部との街のつながりは希薄であり,そして
北側の山並みは市街地付近部分は低いので見えないに等しい。街路から西方向の視界はつきあたりの初等学校により
完全に遮られている(Fig.3-a-3)。隣棟間隔にはゆとりがあり,街路北側住区は高さも平面も異なる住居構成,街
路南側住区は規則正しい整然とした住居,というように街路を隔てて静と動を感じるこの街並みは飽きがこない
(Fig.3-a-4)。

B街路付近
 ここは西部住居地区のメインストリートに沿った街区で,道路中心を路面電車が通るため道幅は大変広い。しかし,
同じタイプの住宅が建ち並び,かつ東西方向の隣棟間隔は狭いので,全体として道路を挟み込む壁のようになってし
まっている(Fig.3-b-1,2)。南北方向の住戸は互いに距離を保っているためメイン道路と平行に帯状の緑地帯がで
きている(Fig.3-b-3)。まっすぐにのびるメインストリートの先に中心部シビックセンターの時計台を確認するこ
とができ,また東側には山並みのスカイラインも見ることが出来る(Fig.3-b-1,2)。この地区を全体的に把握する
と,天空に対しては開放感が高く明るい印象を受けるが,南北方向の視界は壁面のように並ぶ住居のために必ずし
も良好とは言いづらい。

C街路付近
 この街路は中心部の南西寄りに位置する街路で,南に見下ろすと河川とその対岸の丘陵地を望むことができる場所
である(Fig.3-c-1)。場所柄,ランドマークである時計台が見えてもいいのはずなのだが,すぐ手前に建つ歴史博
物館の大きな建物がそれを隠してしまっている(Fig.3-c-2,3)。この歴史博物館が当街区のすぐ横にあることで,
ここが中心部の市街地なのにもかかわらずそれよりも東への展望は遮断されて無い。しかし,さほど建て込んだ印象
もなく疎らで,西方向へ果てしなく続く街路を見る限りここが中心部であることを感じさせる要因は少ない。

D街路付近
 市街地中心の集会議場北東で市役所隣に位置するこの街路は,周りに大きな建物が多く,見た感じ過密でこの都市
の中心部にいる意識を感じさせる。また西側における視界は,シビックセンターによる高層な建築群のため完全に遮
断されており,自然的景観を含むものはその視野には入ってこない(Fig.3-d-1)。街並み自体は同じタイプの住宅が
建ち並び幾分単調であり,そして隣棟間隔が狭いことから過密観を感じさせるが,北側に丘陵地が近いことから北方
向の視野はそれらを補うかのように山の緑がかなり大きな範囲で飛び込んでくる。(Fig.3-d-2,3)

E街路付近
 メインストリートを挟んで反対側に初等学校と公衆浴場があり,一街区西には中心施設があるこの場所は,街のざ
わめきが伝わり活気がある。東西南北すべての方向において景観が違うのが特徴的で,様々な要素を含んだこの場所
は住宅地内であっても動的な感じを受ける。Dではシビックセンターの建物が近すぎて把握しづらかったがここでは
ある程度距離を置いているのでくっきりとその姿を確認することができる。(Fig.3-e-1〜4)

F街路付近
 市街地北東に位置するこの場所は,3方向を山で囲まれた緑地帯の中に存在し,市街地中心部とのつながりは薄い。
どの視野からも山の緑が目に入り,同じ街として街区も道も連続しているのに,あたかも別の街にいるような感じを
受ける。住居間の緑と山の緑が連続していて感覚的に緑地が広く感じられ,またダムの姿が大きく視野に飛び込んで
くる。(Fig.3-f-1〜4)

まとめ

住宅は樹木が生い茂る豊かな緑の中に転々と存在し,全体として公園のように構成され,また住宅間の残りの空地を
歩行者のための公共用緑地として想定していた。しかし,建蔽率も50%以下に押さえられていたにもかかわらず,C
Gによる画像ではさほど空間的にゆとりを感じ取ることができなかった。それは市街地中心部付近の住宅地だけでは
なく,距離を置いた街の端の住宅地においても同様のことが言えた。これは,住戸間の隣棟間隔が一定過ぎて視野に
抜ける大きな空地が見当たらなかったことと,連続して画一的な街路構成で同じ街区の繰り返しによるものが主な原
因であった。景観というものを考えたとき,等間隔による住居配置よりは部分的に偏りがあって大きな空地をいくら
かもったときの方が,その視界の中において変化のある面白みある街となったことであろう。この低層の戸建て住居
による市街地の提案は,人々に平等観を与え,生活に落ち着きとゆとりを持たせるものであって,ガルニエの思想的
な面に基づくものとしてこの計画中で具体化された。ガルニエの思想は社会主義的であるが故にスパイラルな経済成
長を前提としてなく安定志向であり,結果このような性格を持つ都市となった。


第6章  総括

 本研究の最大の目的は,トニー・ガルニエの『工業都市』を3DCGによりヴィジュアル化し,この架空の都市の
空間特性を調べることであった。
 マクロ的視野による都市鳥瞰CGとミクロ的視野による街路アイビューCGの両方で研究を進めた結果,この『工
業都市』では全体として線上都市と集中型都市の利点を兼ね備えた都市であって,その都市構成は将来の市域の拡大
を予期して適度に距離を置いたゾーニングによってできていた。しかしながら,建築のみならず都市計画においても,
その提案者個人の思想的な面・哲学的な理論が計画の根本となることは,これが提案された20世紀初頭も現代も同じ
で,この『工業都市』においてもトニー・ガルニエの無信仰で平和思想の社会主義的一面を垣間見ることとなった。
結局,このことはこの計画を研究した私に終始つきまとうこととなり,トニー・ガルニエという人間個人を研究して
いる錯覚まで覚える始末だった。ただこの『工業都市』は,ル・コルビュジェにより賞賛され,その後の建築とプラ
ンニング理論に少なからず影響を与えたことは相違なく,現代の都市においてもその影が幾らか落ちていることは確
かである。
 これら事柄により,学生として都市計画を学び,かつ現代の都市に生きる自分が近代都市計画のさきがけとも言う
べきこの研究に出会えたことと,またこの研究を実践できたことに対し満足感を覚えている。


注釈

*1 claustra コンクリートやテラコッタ製の格子状パネル。
*2 portico  覆いが付けられた歩廊。この言葉は普通,神殿やそれに類似した建物に入口前方部分に柱を建てて突
              出している所に用いられる。
*3 vista     ある地点からの支配的眺望。従ってその地点自身,他に多くの地点からランドマークなどとして意識
              されることも多い。主として西欧におけるパースペクティヴの技法に伴って発展した景観技法であり,
              記念碑・記念建築・噴水などに向かった見通し景観として演出されていることが多い。


参考文献

 ○復刻書
   ・「Tony Garnier, une cite Industrielle」Philippe Sers editeur, 1988; Riccardo Mariani ed.
   ・「Tony Garnier, une cite Industrielle」Rizzoli, 1990
 ○研究書
   ・「Tony Garnier 1869-1948」Presses Universitaires de Lyon, 1988; Rene Jullian
   ・「Tony Garnier, constructeur et utopiste」Philippe Sers editeur, 1989
 ○ガルニエ展*でのカタログ    (*1990.3 ポンピドゥー・センターで開催)
   ・「Tony Garnier, l'oeuvre complete」Centre Georges Pompidou, 1989
 ○邦書
   ・「工業都市の誕生」ドーラ・ウィーベンソン著  松本篤訳  井上書院
   ・「トニー・ガルニエ」吉田鋼市著  鹿島出版会  SD選書219
 ○学術論文
   ・「景観シュミレーションにおける周辺環境のモデリング手法に関する考察」 宗本順三他
   ・「大学キャンパスにおける3次元CGを用いた景観シュミレーションに関する研究」 宗本順三他
   ・「VRシステムによる建築評価手法に関する研究」大津留祐子他  日本建築学会大会学術講演概集  1996
    ・「VRによる都市景観システムに関する研究」第14回情報システム利用技術シンポジウム  1991
 ○その他
   ・「建築・都市計画のための調査・分析方法」日本建築学会編  井上書院  1987
  ・「建築美を科学する」小林盛太著 彰国社
  ・「古典主義建築の系譜」ジョン・サマーソン著 鈴木博之訳 中央公論出版社
  ・「圏域的計画論」吉阪隆正他共著 農林統計協会


謝辞

 本論文の作成にあたっては,誠に多くの方々のご協力を得ました。特に,大分大学工学部建設工学科教授・
佐藤誠治先生には,多大のご指導を賜り深く感謝いたします。また研究手法をはじめ,研究全般にわたって
大変お世話になりました同助手・有馬隆文先生には心から感謝いたしております。
  また,この研究を行うにあたって特にコンピュータグラフィックスの技術的支援を頂いた後輩の上坂明君,
大津留祐子さん,石川雄一朗君にもこの場を借りて感謝の意を表したいと思います。
 そして,御協力,御助言いただきました博士後期課程2年・(大分高専助教授)亀野辰三先生,先輩の同
1年・蕭乃聖さん,同輩の博士前期課程2年・佐々本淳也君,冨永淳君,松井宏樹君,キム・キョンヒさん,
後輩の同1年・小林祐司君,東條貴亮君,中村鉄也君,福岡賢一君,山本慎太郎君,学部4年・池田将志君,
江口賢一郎君,田中健太郎君,若林浩君,和田崇君には,公私ともども御礼申し上げると共に,深く感謝い
たします。


補足資料

トニー・ガルニエ年譜

1869  8月13日,リヨンのクロワ・ルス地区で生まれる
1883  ラ・マルティニエール職業学校入学
1886  リヨン,エコール・デ・ボザール入学
1889  パリ,エコール・デ・ボザール受験
1890  パリ,エコール・デ・ボザール入学
1899  ローマ大賞獲得,ローマへ留学
1901  工業都市計画案
1903  南仏・シチリア・ギリシア・イスタンブール・エジプトを旅行
1904  工業都市計画案,リヨンに帰還,事務所を開く
1905  トゥスクルムの都市遺跡復元図面集出版(1912年再版)
    テート・ドール公園内の酪農施設竣工
1906  リヨン,エコール・デ・ボザール教授就任
    リヨン市立病院の厨房改築
1907  リヨンのロワヤス墓地のガイユトンの墓竣工
1909  リヨンのラ・ムーシュ地区の家畜市場・屠殺場起工
1910  ドイツ・デンマークへ病院視察旅行
1912  サン=ランベールの自邸としてのヴィラ竣工
1913  グランジュ=ブランシュ病院起工
1914  リヨン国際都市博覧会の主任建築家となる
    メルシエ・シャレーサン家具製造会社工場竣工
1918  『工業都市』出版
    リヨンのジェルラン地区の陸上競技場施工開始
1919  リヨンのエドゥアール・エナール記念碑竣工
1920  『リヨン市大建設事業』出版
1922  リヨンのエタ・ズュニ地区の集合住宅施工開始
1924  リヨンのモンプレジール地区の戦没者慰霊碑竣工
1925  2月26日から3月26日まで,パリの装飾美術館で103点からなるガルニエ展開催
    パリのアール・デコ博,リヨン・サン=テチエンヌ館竣工
1926  リヨンのオーギュスト・ショヴォー記念碑竣工
    ジェルラン地区の陸上競技場竣工
1927  カラシュニック著『都市計画のいくつかの問題』に序文を書く
1928  ラ・ムーシュ地区の家畜市場・屠殺場竣工
    近代工芸展のホール竣工
1929  アカデミー通信会員となる
    ジェルラン地区の陸上競技場内のプール竣工
    ヴォードレイ電話局起工
1930  マニラック著の構造規準書の序文を書く
    テート・ドール公園内の白鳥の島の戦没者慰霊碑竣工
    リヨンのカリュイール・エ・キュイール墓地のジャンセールの墓竣工
    カルヌーのヴィラの庭園改造
    リヨン市立織物学校起工
1931  ヴォードレイ電話局竣工
    ブーローニュ=ビヤンクール市庁舎起工
1932  『工業都市』第二版出版
    『ラルシテクテュール・ヴィヴァント』誌春・夏号でガルニエ特集
1933  エタ・ズュニ地区の集合住宅完成
    グランジュ=ブランシュ病院竣工
    リヨン市立織物学校竣工
1934  ブーローニュ=ビヤンクール市庁舎竣工
1936  ロン=ル=ソーニエのクリニック・パスツール増築
1937  グランジュ=ブランシュ病院入口にガルニエの胸像設置
    リヨンのクロワ・ルス墓地のガルニエ家の墓竣工
1938  ラ・ベドゥールのカルヌーへ隠棲
1948  1月19日カルヌーで死去,「トニー・ガルニエ委員会」結成
    ヴェロネージ著『トニー・ガルニエ』出版
1951  「トニー・ガルニエ委員会」がガルニエのデッサン集を出版
1970  リヨン美術館で160点からなるガルニエ展開催
1973  ガルニエの切手発行
1990  パリのポンピドゥー・センターでガルニエ展開催
1991  同巡回展がリヨン美術館で開催


図版内容参照表

                  原著図版番号
 『工業都市』の平面図         1-2
 『工業都市』の透視図           3-6
 公共建築 平面図           7-10
      集会所           11-18
      博物館(歴史的収集物)    19-20
           図書館           21-22
      展示用ホール        23-24
      劇場            25-28
      競技場           29
      公衆浴場          30-33
 学校   平面図           34
      工業高校          35
      初等学校          36-39
      美術学校          40-47
 病院   全体透視図と平面図     48-52
      傷病兵の病棟        53-55
      日光浴療法棟        56-58
 鉄道駅                59-64      (以上,第1巻収録分)
 住居                 65-132
 ホテル                134-135
 アパートメント・ハウス        133,136-147
 建設詳細 排水計画          148-150
      コンクリート詳細      151-154
      扉,窓詳細         155
 屠殺場                           156
 牧場                 157
 ぶどう園               158
 工場                 159-164     (以上,第2巻収録分)
HABITATION CG
085 086 087 091 092
093 094 096 098 099
100 101 103 104 105
107 108 109 110 111
113 115 117 120 127
129



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