1880年代に発想されたこの計画は、1890年になるまで実際の着手は始まらなかった。そして1918年に起きた国内危機や、社会政治的な不安定性、そして1920年には Soria 自身も他界することによってついにこの計画は中途で頓挫してしまうことになる。しかし Soria 自身が他界した時期においてこの計画は、イベリア半島の外、つまり他の国々では注目を浴びるようになっていった。

 地図上からは、以前計画されたところが残っているのが分かる。

 19世紀後半に都市計画が行われようとしたあとを、マドリッドの中心部から北端、東の端に位置している Chamartin de la Rosa 地区とPeblo Noevo 地区が証言している。街の名称が「La Ciudad Lineal」、またその大通りの名称も「Calle de Arturo Soria」といい、以前は「線状都市」が計画されていたということが分かる。

 そこは、全長約6km、幅員が約40m、1つの街区が約80〜100×200mになっていて、その大通りを中心にして左右対称になっている。

 

back   next   top