パネルディスカッション「連携・交流を活かした地域づくり」
(東九州軸推進機構・九州地方建設局主催,地域づくりシンポジウム−連携・交流−,1996年2月,於:大分県別府市,ビーコンプラザ)
 
シンポジウム風景



コーディネーター:
          佐藤 誠治(大分大学工学部教授)
パネリスト:
          井上有比古(住学共同機構「筑豊地域づくりセンター」理事)
          牛飼う修司(北九州市観光課)
          大坪  和(霧島温泉郷事業協同組合理事長)
          宮崎 和恵(シティ情報おおいた副編集長)
          矢野 大和(宇目町観光課、レストハウス「うめりあ」派遣)
          柳田 泰宏(延岡市曹洞宗極楽寺住職、JC宮崎ブロック協議会)
 

はじめに

佐藤 基調講演で『地域づくりと地域連携軸の課題』という題で話をしました。これを受けた形でパネルディスカッションを進めたいと考えていましたが、これだけ多士済々の方々なので、あまりシナリオにとらわれずに進めます。北は福岡県の北九州から、南は鹿児島の霧島まで4県にわたりお越しいただいた6人の方々は、多彩な顔ぶれであり、個性豊かなメンバーです。今日のパネルデイカッションにまさに適任の6名の方だと思います。
 
 
 それでは、地域の魅力をどう高め、そして地域間の交流、連携を図っていくのか。またそのためにどういう連携軸にしたらいいのか。これがパネルディスカッションの一つの流れになるのではないかと思います。まず最初は、様々な地域づくりをしておられる皆さんのそれぞれの経験や感想を話していただきます。さらに皆さんが何を考え、どんな問題意識を持っているのかをお伺いします。次の発言では、6人のパネリストの方の話をベースにして、これからの地域づくりをどう発展させればよいかを、東九州軸の中で、あるいは一般論として考えたいと思います。3回目の発言では、具体的にハード面での提言をいただきたいと思いますが、ソフト面でも結構です。地域連携軸としての東九州軸をどういうふうに考えればよいか、具体的に承りたいと思います。
 では私の側からアイウエオ順に並んでいただいておりますので、まず井上さんからよろしくお願いいたします。
 

地域づくりの経験と問題意識 

井上 住学協同機構「筑豊地鹿づくりセンター」理事の井上です。福岡県のちょうどど真ん中の町、飯塚市から参りました。住学協同機構という言葉は耳慣れないかも知れませんが、住は住民、学は大学。つまり大学で、住民であり地域おこしのリーダーたる人たちが集まって、いろんな話をしようということで発足したわけです。この筑豊地域づくりセンターの話をする前に、飯塚市と筑豊の話をしたいと思います。
 本日、会場入口で『テクノユートピア飯塚』という冊子をお配りしました。ちょうど福岡、北九州、久留米、豊前のそれぞれの町まで、約1時間かかる内陸の町・飯塚市と近郊の山田市、嘉穂郡、田川市、田川郡、直方市、鞍手郡の25行政体を総称して筑豊という名称が使われています。筑豊はまさに産炭地を表わす言葉で、石炭産業以前はこの名称はほとんど使われていませんでした。すなわち博多を中心とする筑前と、国道10号線沿いの豊前との、ちょうど中心に存在するということで筑豊の名称が石炭とともに誕生したわけです。その後の石炭無き後は旧産炭地という言葉が使われています。筑豊の人口はピーク時は約77万人でしたが、一時は48万人を切った時期もあり、地域全体が過疎化して人の心も経済も疲弊した町でした。現在は持ち直して約50万人。それでも石炭六法と俗に呼ばれる産炭地域振興臨時措置法により、ずいぶん国のテコ入れが行なわれました。しかしそれは時限立法で、1992年に切れることから皆の危機感をあおりました。
 地元の地域おこしのメンバーたちの間から、「それぞれの地域だけで考えるのはいけないんじゃないか。筑豊の25行政体の中で、地域おこしの団体が連携して、そこから生まれる相乗効果で、この石炭六法無き後を乗り切らなくては筑豊は生き延びていけないのではないか」という声が高くなる中で発足したのが、筑豊地域づくりセンターの前身である「筑豊ムラおこし・地域づくりゼミナール(略称:筑豊ゼミ)」で1988年4月に発足しています。このゼミナールの舞台となったのが、飯塚市にある近畿大学九州工学部でした。つまり大学の学舎を借りて、地域おこしのリーダーが集まり、情報交換の場としては非常に有効でした。しかし何事も3年も経つと、マンネリ化と惰性が出ます。このままゼミを続けても新しいものが生まれて来ない。しかもそれぞれ地域の村おこしや町づくりに関する情報のデータベースを保管する事務組織がありません。そこで1992年10月に誕生したのが住学協同機構「筑豊地域づくりセンター」です。筑豊ゼミは9期を迎えました。同じく筑豊地域づくりセンターが4年目です。ゼミの卒業生が約700名、センターの理事が30名とその会員が92名で運営しています。センターを一言でいえば、いろんな町おこし、村おこしのリーダーや筑豊の未来に志を持つ者たちの情報カクテルのようなセンターです。いろんな情報を混ぜ合わせて、そこから一つの味を出していく場だと考えています。それぞれの団体がそれぞれの運動をやっていますが、その活動については後程紹介します。

牛飼 北九州市観光課に勤める牛飼です。今回、連携と交流がテーマということなので、平成7年3月25日にオープンした「門司港レトロ」という新しい観光スポットを事例にお話させていただきます。まず1曲開いていただきながら−「和布刈で誓った愛ならば・・・♪」。どうもありがとうございました。この歌はプロが歌っているわけでも、作ったわけでもありません。これこそ地域の連携と交流から生まれた歌なのです。歌の作詞作曲したのは、長年、門司港で街づくりに携わってきた会社の社長さんで、十数年来、温めてきた歌だとか。そして歌っている男性は市観光課の係長と、女性はJR九州の社員の方です。
 さてこの門司港レトロには、主な公共施設としては、重要文化財のJR九州門司港駅、三井倶楽部、そして昔の大陸航路の待合所だった旧大阪商船、昔の税関施設をそのまま利用した旧門司税関、また北九州市が友好都市として交流している中国の大連市の建築物のレプリカである国際友好記念図書館などがあります。
 門司港レトロの目的として、新しい都市型観光の拠点として作られた側面もありますが、最終日的は観光振興を通じた街づくりです。市観光課が推進する観光地づくりの基調テーマは、生活適地としての観光地づくり。簡単にいえば、住む人が魅力を感じ、誇りを持てる街が、すなわち訪れる人にとって本当に魅力ある街だろうと考えるわけです。これを目標にして観光地づくりを進める中で、門司港レトロは生まれました。
 ただやはり300億円かけた公共事業ですので、今までは行政主導だったことは否めません。もちろん昔からポート門司として世界に名を馳せた門司港だから、これまでも各街づくり団体がいろんなイベントを開催し頑張っておりました。が、やはりハード部門は行政が引っ張って来た感が強いわけです。でも仏を作って魂入れず、絵に描いた餅ではいけません。そこで行政と民間が一体となり、どうすれば観光振興を通して街づくりができるか?と発足したのが、「門司港レトロ倶楽部」という組織です。平成7年12月に発足しました。
 地元の街づくり団体、地元住民、企業、行政等で構成されております。素人ばかり集まっているので、プロの日も必要だろうと、門司出身で現在は東京のテレビ演出家である久野浩平さんに顧問になっていただいています。倶楽部の構成として3部会があります。1つは「観光宣伝部会」で、JR九州、観光課なども参加しまして、北九州の観光キャンペーンやパンフレットの制作などの活動をします。この小さなワッペンもそんな中で生まれたものです。観光宣伝部会の中には、イラストレーターの方もいて、門司港レトロのシンボルとなるロゴマークも作っているところです。もう1つは「観光客受入れ部会」で、主にイベントを企画します。例えば昨年は「シーボルト旧蔵日本植物図譜展」を開催しました。ロシアのすごい博物館(ロシア科学アカデミー・コマロフ植物研究所)に眠っていたものを借りてきましたが、日本初公開ということでみんな驚いていました。資金繰りにいよいよ困ったら、先程歌っていた観光係長の大川が、イベントをやろうかという詰も出ているところです。係長は美空ひばりさんが3度の飯より好きで、全くプライベートのボランティアなんですが、年間に美空ひばりさんのショーを60回ぐらいやる程なんです。3つ日の部会は「観光資源開発部会」です。今後どういう観光スポットが必要か、どんな観光案内板、歩行者誘導板などが必要か、などを検討する部会です。現在も毎月1〜2回、それぞれに部会を開くので、少しずつ形になってきています。
 オープン以来、もう100万人を超えるお客稼が門司港レトロ地区にお出でになっています。もちろんこれで終りではなく、今後もいろんな計画があります。例えば、まずイタリアのデザイナーが設計するシティホテルが建ちます。それと複合的な飲食物販施設、120メートル級のマンションの最上階を市が買い取って展望台にする予定です。さらに海側には族や海峡をテーマにしたミュージアムも作る予定です。
 門司港レトロのPRに欠かせないのが、実は対岸の山口県の下関です。行かれた方はご存じだと思いますが、海峡といってもとても狭い。開門海峡の一番狭い所は700メートルを切るほどで、外国人は川と見聞違えるくらいです。つまりそれほど近いお隣りの都市ですから、いろんな事で連携して、観光振興に取り組んでおります。例えばパンフレットを共同制作しています。また下関市の船島は宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した巌流島として知られていますが、毎年5月4日に共同でイベントを開催しています。下関は城下町の長府や壇ノ浦の合戦で海に没した安徳天皇を祀った赤間禅宮などがあります。一方、門司港には明治・大正の建物が残っています。さらに小倉は都市型観光拠点になり、またスペースワールドでは未来を体験できます。つまり、下関とよく話すのですが「観光の歴史絵巻が見られる。これでPRしよう」という詰もだんだん進んでいます。というわけで皆さんに門司港レトロを紹介したのは、本日のシンポジウムのテーマに一番適した観光地づくりではないかということです。

大坪 鹿児島から来た大坪です。本日は一人で、鹿児島の霧島温泉を、別府温泉で宣伝しなくてはいけないのかな、と思っていましたが、鹿児島の方が何人かお見えなので少し安心しております。
 私たちの霧島温泉郷街並整備事業は、最近少し知られるようになりました。実は10年ほど前から、街並整備をしてきました。この計画作りにはだいぶ時間がかかりまして、最近、少しずつ形として見えるようになりました。建物が次々に新しく建て替わっている所もあり、「ああ、何かやっているな」という感じなのでしょう。
 実はこの事業は、建設省の補助金をはじめ、通産省の無利子の融資などの助成を受けていますので、こういう場で何か話をしなさいと呼ばれると、行かざるを得ないかなという思いもあり、やって参りました。
 ここ大分は、鹿児島から非常に遠い、九州の中で一番遠いような気がします。九州縦貫自動車で鳥楢まで来て、それから大分自動車道でこちらに来たわけですが、もっと近くならないかなあ、と痛感します。飛行機の便も一日2便しかないとか。大分方面からももっと来ていただければと考えます。
 鹿児島県は昭和40年代、新婚流行のメッカで、たくさんの方が来られて、霧島温泉にも必ず足を寄せたものです。別府ほど大きな街ではありませんが、霧島をご存じの方は結構おられます。しかしブームが終り、その後は観光客は海外へ移り、また周遊型観光から、今度はマイカー観光や滞在型観光になってきました。こうして観光の形態も変わると、霧島温泉でも新婚流行ブームの時期に建った施設が非常に古くなってきたわけです。
 それをどういうふうに作り替えるかは大きな課題でした。それで、そのまま約20年が経ちました。霧島温泉に丸尾地区という小さな集落があり、族館やホテルが少し集まっています。そこが道路改良工事でバイパス化される計画が浮上した時に、地元の通り会によって「それじゃ困る」という事で始まったのが街並整備計画です。そういう意味では、地域おこしや町づくりの意識で始めた事業ではなく、言ってみれば地元の人たちが止むに止まれず始めたことでした。つまり、バイパスでは困るから、自分たちの所の道路を拡幅してもらいたい。その代わりに、せっかくの機会だから町づくりというか、建物を建て替えるなどの計画を立て始めたわけです。
 では、具体的にどんな事をしたかというと、まず計画作り。ただし、通り会が、町に「何か作ってください」とお願いするのではなく、自分たちでやっていこうということです。
初めは通り会でしましたが、事業協同組合として法人化し、また中小商業活性化事業という事業も始まったので、助成金を受けながら4年間で計画を作り、毎年1冊ずつ報告書を出しました。計画書を作る中で、行政にもそのつど参加してもらい、計画を煮詰めながら、内容を認知してもらう方向で進めました。
 そういうことが良かったのか、結局いろいろなインフラ整備ができるようになりました。
単に建物を建て替えるだけでなく、道路はもちろん、例えば下水道も石畳の歩道も作りましょうとか。最近の話では、電線の地下埋設もすることになっているわけです。地方中心都市でもない霧島が、そんなことができるということは普通ではないわけでして、それがモデル事業としてやってもらえることになったのです。
 皆さんに新聞記事をお配りしておりますね。記事には民活主導、あるいは組合方式で積極事業と書いてありますが、最初はそんなつもりではありません。しかし、やはり地方の、本当の田舎で何かやろうと思えば、行政に期待してもなかなかできないことではないでしょうか。それを私たちは、事業協同組合を作って実現した点が、民活主導という記事になって評価されているのではないかと思っています。現在は3期工事に入りました。周辺が森林地帯で、湯煙が立ち昇っていたりする地区です。そのため、新しい建物は周辺の自然景観を考慮して建てられています。今後は、町、観光協会、商工会の第3セクターで「街づくり会社」を設立して、そこに核になる施設を作る計画です。そのあたりの詰も次にさせていただければと思います。

宮崎 大分からの代表という事で参りました。私は『シティ情報おおいた』という、皆さんの県にもそれぞれあると思いますが、タウン情報誌の編集をしております。タウン情報誌の狙いは、もともとはそれぞれの町を面白くしようという事もあり、町づくりの一端をお手伝いさせていただいているかな、といつもは自負しています。でも、なかなかこういう場に出ると、自分たちが何をしたということがなかなか話せない。いつも皆さんから情報をいただいて、それを皆さんに提供する形ですから。皆さんがされている事に対して、少し斜めから物を言ってみたりすることが癖になっていて、こういう席に並ぶと「幸いなあ」といつも思っています。
 わが社はイベントが大変好きで、自前でよくやりますが、その一つの「ベイサイドルネッサンス」についてお話します。大分市と別府市のちょうど中間に、西大分という所があります。別大国道を別府から来ると、ちょうど抜けた一番端になりますが、ここで4年前からベイサイドルネッサンスというイベントを開催しています。4年前の当時は、確かウォーターフロントとかいった言葉がたくさん出てきて、水際作戦という言われ方もしていました。現在、大分市自身も観光に目を向けていろんな事をしているところですが、当時、わが社が若い人たちに意見を聞いたりアンケートを取ったりしてみると、「あれも無い、これも無い、無い、無い・・・」でした。例えば、福岡と比べてイムズが無い、宮崎と比べてシーガイアが無いといった、無い無い尽くしだったんです。確かに、企画する側も、催しをやるには建物も場所もホールも、無い、無い、無い尽しだったんです。じゃ、何もできないのか?しかしそこはタウン誌らしい知恵を働かせて、無くてもできるという所から発想するわけです。先程の西大分の、いわゆるウォーターフロントと呼ばれている所は、現在はシーフードのレストランやライブハウスや中国料理店や、最近はダイビングショップもできています。多目的に使えて、約200人収容できる倉庫をそのまま使ったようなホールもできています。
 もともとここは倉庫街といった穿囲気の場所でした。そこで何をやったかというと、 フリーマーケットです。今ではいろんな場所でフリーマーケットが開催されていますが、個人やグループがそれぞれに1坪なりのスペースをテナント料を払って確保し、そこで品物を売るわけです。ちなみにそこの広さが、何と5000平方メートルもありました。その空間のどのスペースを会場に使ったかというと、ダイヤモンドフェリーが西大分から発着するんですが、夜の7時半に出港するまでは駐車場が満杯なんですね。フェリーが出た後は駐車場がガランとなってしまう。このスペースを借りて何かをやろうと思った時、フリーマーケットという形をとったわけです。
 確かに何も無い所でやっているんですね。フリーマーケットはいろんなスペースを会場にして開かれていますが、西大分の場合は、潅があり、港があります。駐車場が空くのは午後7時半ですから、すっかり夜ですよね。ところで大分は、今もって商店街の閉まるのが早い。夜7時半ぐらいになると、ほとんどの商店は閉まっています。現在は少しずつ、商店街のリニューアルが行なわれて、だんだん開店時間が遅くなりましたが、4年前はとんでもない!7時半に閉まったんです。若い人たちは夜遊ぶ場所が無い。そんな時に無い無い尽くしの所に、夜のイベントが催されるわけです。ただ駐車場は7時半からしか使えませんので、私たちはそれから準備して、イベントのスタートが午後9時。1回目は翌日の午前3時までしました。オールナイトやるわけです。そんな無茶苦茶なスケジュールでやれるのはやっぱりタウン誌しか無いわけで、若い人たちがスタッフになって動いてくれるとこしかありません。このイベントは実は地元の銀行といっしょになって企画したものです。1回目は8月の第1土曜日の夜で、タウン誌を通じて「お店を出しませんか」と広報しました。約70店舗分のスペースを用意していましたが、あっという間に集まり、たくさんお断りしました。会場ではステージを設けていろんなパフォーマンスもしました。
 もちろん初めての試みでしたから大変不安でした。入場料も500円いただきました。それは中に入って物を買ったり、パフォーマンスを見たりするための料金としてあえて500円いただいたのです。そういうイベントはそれまで無かったし、若い人たちが夜遊びに行く場所がないといっても、果たして500円払って来るだろうか・・・。駐車場の問題などもいろいろありましたが、ふたを開けると、5000人の人たちが来てくれました。私はよく会合などに参加した時、「大分には若い人たちが少ない」という話が出ます。「なかなか若い人たちが来てくれない」とか。ところがふたを開けてみると、本当にこんなにたくさんの若者が大分にいたんだろうか、というぐらいフリーマーケットに来ていただいたんですね。
 またその中で経験したことですけど、1回目は5000人来てくれました。2回目は7000人来ました。3回目は別府の商工会議所の青年部からお声がかかって、大分と別府で同時にできないかとというお話をいただきました。これは一応大分のなかでの連携です。
「じゃ、やりましょう」と3回目を大分と別府で開催しました。その頃、大分と別府の間をラヴース・コンチェルトというクルーザーが走っていて、それを利用すれば陸からも海からも交流できます。結局、大分4000人、別府4000人、計8000人の方に来ていただきました。そして4回目は昨年でしたけど、残念ながら別府と大分での両方開催というのは人員配置の問題がかなり出てきた経緯もあって、大分だけでやりました。それでも8000人の入場者を記録することができました。
 もう一つ、やってみて思ったことを話したいと思います。フリーマーケット自体の魅力が年々、やればやるほど広がると、いろんな人が出店したいとおっしゃって下さるんですが、2回目の時に失敗したのが、商売人の方々が増えたことでした。それによってお店自体の魅力が半減するんです。なぜかというと、やはりお店一つ一つが、その土地に住む私たちの暮らしの歴史の中から出てきたものであるべきだからです。若い人たちもそういった物にやはり魅力を感じるようなんですね。それぞれの地域、それぞれの暮らし、それぞれの歴史、その町にしかないというようなものもいずれは出てくると思うんです。買いに来る人たちはそういうのが面白いんですね。これは単にフリーマーケットだけではなく、これからいろんな話が出ると思いますが、それぞれの場所の歴史を買うことなわけです。
 さらにもう一つの魅力は、だれもが売り子さんになれる面白さです。つまり、人との対面販売を通した面白さなわけですが、今のほとんどの人はそんな経験があまりないようです。相手と話をしながら買うとか、交渉しながら買うとか。よく海外旅行へ行った人が、楽しい思い出として話すのは、「カタコトながらも現地の人と話して、このネックレス安くしてもらったんだよ」とか。多分そんな話のほうが、観光地で何を見たという思い出よりも、結構、うれしそうに話しますね。つまり、実際に現場に行って土地の人と話すという対面の面白さが、フリーマーケットを中心とするペイサイドルネッサンスのイベントの核になっていたなと、やってみて改めて感じたことでした。
 さっき門司港レトロの詰も出ましたが、東九州ということを考えた時に、そこには港もいろいろあるし、魅力的な場所もあります。ペイサイドルネッサンスは何も大分だけのことではありません。東九州の地形を考えた時、これは十分にやって行けることではないか、と1つの例題としてお話しました。自分がやってみて感じたこと、そして何も無くてもできる事があるという提案を含めてお話させていただきました。

矢野 宮崎さんが大分市の代表なら、私は大分県の本当に田舎の宇目町から来ました。
東九州軸ということになりますと、鹿児島、宮崎、大分、福岡というリンクになりまして、宇目町はちょうどその真ん中に当たるのではと考えます。私は宇目町の役場の人間です。
他にお宮の宮司もしています。またレストランの経営もさせていただいております。それから落語が大好きという人間でもあります。何か4つが全然関係ないように思われますが、少しつじつまを合わせると、まず家が代々お宮で、親父が早く亡くなったために、「おまえが継げ」と言われて宮司をしています。しかし田舎の宮司ではなかなか生活ができないので、氏子の方々が役場への就職運動をしてくれて、いわゆる私は役場にコネで入った人間です。そして昨年の4月に第3セクターで宇目町にレストランができると、役場から派遣されました。「初年度は赤字になるだろうけんど、赤字になることは許しちゃるが、補助金はやらん。だから金策はお前がやれ」と言われて、私もよくそんなことで受けたな、と思ったりしたわけですが・・・。
 さて宇目町は、大分県と宮崎県の県境の山里で、昔から野生動物も多く、中でもイノシシの産地でよく捕れます。また野菜などの物産も、豊の国の中では本当にありがたいくらい豊富です。レストランの正式の名称は「交流促進センター」で、街の人と田舎の人が交流しなさいよという形で、国から補助金を受けて作った交流の場。そして味の方では地域の食材を使ってメニューを作り、物産コーナーでは地域の物産を売るレストランです。メニューの開発など今まで全く経験したことがありませんでした。いろいろと考えてみると、宇目町はイノシシがたくさん捕れる、そのイノシシは稲を荒らすなどいろいろ被害があります。そこでイノシシを利用して、何かメニューができないかと考えた末に、イノシシの肉を入れたラーメンを考案しました。これが「ししラーメン」として、昨年の4月から今年2月までに1万8000食出ました。みんなから、当たったと言われてますが、おなかのほうに当たらなくて良かったと思っています。宇目町は人口が約4000人でイノシシはその倍ぐらいいる山里で、もしイノシシに選挙権があれば、われわれ人間のほうがラーメンになっていたかも。でも来年はまた新しいメニューを作らなくてはいけません。
 今日は地域づくりがテーマですが、私は今まで生活してきた地域のために、地域づくりしているという感覚が全くありません。与えられた事をさせていただくという感覚です。
どこか悲壮感漂いながら、地域づくりをやったという感覚はなく、今まで楽しくさせていただいた。ですから本日は皆さんの話を伺いながら、自分なりに勉強したいと思っています。

柳田 私は宮崎県北の延岡市から来ました。マラソンの宗兄弟や谷口さん、柔道の中村三見弟などトップアスリートが活躍している街から来ました。また私は禅宗の坊さんをしています。何で堺さんがこんな事をしているの?と思われるかもしれませんが、まちづくりは人づくり、人づくりは自分づくりであろうと感じています。自分をつくることは心をつくるということです。心となるとお寺ということで、私も心づくりということでやっています。
 本日は地域の連携、交流がテーマですが、私は(社)日本青年会議所という団体に所属していました。これは国際組織で、20歳から40歳までの青年が明るく豊かな世界をつくろうということで、商工関係者に限らず、私のような宗教家なども参加して、町づくりはじめいろんな活動をする団体です。今日はその運動を紹介します。
 ではスライドを見ながら、お聞きいただければと思います。これは延岡の「鮎やな」で、秋の風物詩の一つです。この川で捕れたアユはおいしく、川はたおやかな空間をつくっています。次に延岡には、余熱を利用したヘルストピアという施設が作られています。イギリスなどにもあるような、街に親子連れで出かけて楽しめる空間として、プールもお風呂もあります。そんな延岡でまちづくりを進めているのですが、いつもぶつかるのが道路が無いことです。産業面、文化面で素晴らしい施設がいろいろできているのですが、例えば、音楽のプロを呼びたくても移動時間が長すぎてだめだとか、大学を誘致したくてもいい講師が来てもらえないとか。道路建設には時間がかかります。行政も頑張っていますが、民間でも何かできないかと、平成3年に延岡市、日向市、西都市の青年会議所が高速道路づくりを進めようと、「東九州自動車道延岡・西都間建設推進民間協議会」を作りました。
 九州全体を見た時に、西九州に比べて東九州が伸び悩んでいます。九州の人口は国の1割ありながら、経済は1割に満たない。西九州も頑張っていますが、遅れている東九州が伸びない限りより発展はないだろうという視点から九州がひとつとなり、広域的に取り組むべきじゃないかと感じています。この延岡、日向、西都は工業集積もあるし、天然の良港もあり、古墳など観光地としても素晴らしいものがあります。その中で沿線の15市町村の商工会青年部や行政の協力を得て、また推進協議会を作りました。そこではまず署名活動で一生懸命頑張り、34万人集めました。ところが建設省へ持って行ったら、「山形は100万人持ってきたよ」と言われまして・・・。連携したつもりでしたが、延岡、日向、西都だけでは狭いんですね。そこから、やはり東九州をよくして九州全体の浮上を図るには、九州はひとつとなり運動すべきだという認識を持ったわけです。
 それからは日本青年会議所の九州地区協議会の協力を得て、「九州はひとつ、九州循環高速道早期実現へ向けて、マラソンリレー」というイベントを企画しました。青年らしく汗を流すことで、何とか話題を持とうということです。北九州市と鹿児島市を同時に出発して、4日間かかって延岡にゴールする。途中、雨も降りましたが、民間、行政、いろんな方が参加してくれました。その間、各地域ではアピールや決起大会をしていただき、知事さんも走ったり、3000人規模の決起大会も開いていただきました。企画からゴールまで2カ月間でやり遂げました。九州をまとめるのもなかなか大変でしたが、いろんな方が九州を駆け回ってまとめ、何とか実現できたわけです。そして当日は雨が降りましたが、ゴールする前頃から晴れまして、ホッとした晴れやかな気持ちになりました。九州78ブロックの青年会議所に6500名のメンバーがおりますが、そのメンバーが駆け寄り入場してきました。最後に北からと南からの最終ランナーを宗さんと谷口さんにお願いして、市長さんやら各関係者の皆さんがゴールに向けて走りました。ゴールしてたすきをJC地区会長に渡して、それを建設省九州地方建設局にお渡ししました。このイベントは広域的な連携事業として大変評価されました。
 最近、道路建設にあたっては採算性が問題にされますが、道路ができていない所で採算性を言われてもしようがないわけです。道路というものは全部つながないと意味がないわけです。延岡に「延岡南道路」という1キロ区間の道路がありますが、地方でも利用性があるということを訴えるために、平常は約3000台しか通らないところを、みんなに呼びかけて5000台をクリアできました。将来に向けて利用価値が深まると認識しました。
 それから東九州内にある23の青年会議所とで連絡協議会を作り、交流を深めながら活動しています。それぞれの地域で青年会議所を中心に町づくりをしているわけでが、今後もそうした組織がもっと連携し、交流していこうと、毎年総会を開いています。
 また地元だけの活動ではだめだということで、東京に集まる機会を利用し、東京会議では関係の先生方に来ていただいてレタチヤーや陳情を行なっています。高速料金改定にともなう公聴会にも出席しました。九州からは平松知事も出席されました。
 その後、「早くつくろう、東九州自動車道」ということで、走ったり、歩いたり、自転車で行ったりいろいろ。昨年はじっくりみんなで歩きました。マラソンリレー当時の町の穿囲気とは違い、現在は延岡の町も景観モデル都市になったおかげで、電柱が無くなりずいぶん広々とした空間になっております。
 また延岡道路などの発表がありました。建設省直轄で、延岡道路を将来、高速道路につなぐものとして建設中です。東九州は多くの資源があり、生かすものがたくさんあります。
そのためにも早く高速道路のネットワークをつくるべきです。それも今通っている高速道路は1本道で、どうしても強い所に引っ張られてしまい、結果的に一極集中を起こしますから、循環型にしてどこからでも入れて、伸びていくような高速道路を作っていこうと運動しているところです。
 多くの方が高速道路は長くかかるから諦めたようなことを言いますが、それが九州になかなかできない理由の一つではないでしょうか。担当者は2、3年しか担当しないわけで、その間に「何とか来年は通すぞ」という努力をする事が大切ではないかと思います。特に官民一体となってそれぞれのよさを出しながらカを合わせ、完成まで頑張る運動を継続すべきでしょう。
 そういう意味でも、一地域が様々なことをしても、どうしても限界があります。大きい視点へと高めた場合、東九州の高速道路ネットワークは日本、アジア、世界の中の九州の最低限のインフラではないかと考えます。今やっておかないと未来はありません。私たちは「未来は今」ということで頑張っています。九州はひとつと連携して運動しましょう!
 

佐藤 少し時間がオーバーしましたが6人の方にそれぞれお話していただき、やはり人選に誤まりはありませんでした。いずれも交流や連携を実際、日頃の活動の中で実践しておられるなと感じたわけです。
 例えば井上さんの場合は、ソフトを重視した町づくりをやっておられる。牛飼さんは人材の規制の中で相互の連携を深めていこうと構想されていますし、ハード面からいえばレトロの町づくりという町並整備。また大坪さんの場合は霧島の温泉街の町並整備をやっておられる。柳田さんの場合は高速道路というターゲットを絞って地域連携軸を作る運動をしておられる。矢野さんはハードに近いわけで、物を通した交流を実践しておられる。宮崎さんの場合はハード、ソフトにとらわれず、全体を大きく包み込むような情報型の交流で、非常に多彩ですが連携や交流という形で括られる運動をしておられます。
 さて、これからどう2回目につなげるかです。まず牛飼さんと大坪さんのお2人は先程申し上げたようにハード指向。さらにいずれも観光を、牛飼さんは公の立場で、大坪さんは民の立場でやっておられる。お2人は現状では狭い形の取り組みですが、東九州連携軸を頭に置いた時にもっと広域にわたった観光活動について、どんなことが考えられるかを発言していただきたい。「九州は一つ」とよく言われますが、中には「九州は一つ一つ」と言う人もいます。観光振興の行動においても、なかなか九州全体が一つにまとまらない。
東北の場合は地域連携がうまく、キャンペーンも優れていると対比されますが、いかがですか。
 
 

地域づくりの展開方向と東九州軸への提言

牛飼 それでは東九州全体ということでお話します。3年程前に(社)日本観光協会が別府市のオリアナ号で観光シンポジウムを開催した時に私も参加しました。コーディネーターがニュースキャスターの宮崎緑さんで、パネラーの一人としてJR九州の石井社長が出席されました。宮崎さんが「九州の観光の魅力は何ですか」と質問すると、石井社長は「九州を流すると、本当の日本が見えてくる」と答えました。私は痛く感銘しました。九州は豊かな自然がある、たくさんのテーマパークがある、温泉がある、人情がある。旅にとって必要な全てがあるのが九州じゃないかというお話でした。東九州軸にも全く同じことが言えます。まずテーマパークでいえば北九州のスペースワールド、大分のハーモニーランド、宮崎のシーガイア。温泉は山ほどあります。今、私どもは観光振興計画を作っていて、各方面の有識者に話しを伺うのですが、ある時「名だたる観光地があるけれども、こんなに湧出量の多い温泉は珍しい、宝じゃないか」と別府の話が出ました。確かに風光名眉な所がたくさんあるし、九州は人情がある、全くその通りです。それをうまく生かしていくことが必要です。
 東九州といってもかなり広いです。私どもの観光振興計画では、まず交通体系からわりと近い所を結んでしまう。今年の1月に北九州市と、別府市、大分市とで「東九州観光ルート協議会」を設置しました。実は今朝、私は小倉から特急に乗って1時間半しかかかりませんでした。本当に近いんですね。部分的に高速道路系や有料道路が開通しているので自動車でも近くなりました。3市で北九州市から大分市までの東九州軸の観光の魅力を総ざらいして、どういう切り口で売り込むか。将来の東九州自動車道、その先の東九州新幹線まで見越して、先取りした形で魅力を発見していこうと取り組み始めたわけです。
 それとやはり観光の先進県といえば鹿児島県、宮崎県、大分県ですから、私たちもいろいろ教えを乞わなくてはなりません。こちらの3県では「東九州観光協議会」を作っており、福岡県と北九州市が今年4月から正式加盟しました。3市の狭い範囲じゃなくて、東九州全体の観光振興をやる方向にきております。まさに広域的な観光振興の取り組みであり、私たちの新しい試みです。また門司港レトロの観光振興では広域連携の一つとして下関市とで作った開門地域行政連絡会議があります。これは観光に限らず、全ての分野で連携しようというものです。県や市の枠を超え開門海峡をキーワードに、道路整備も観光も公共施設の整備も重複なく効率的に行ない、開門として一体的に発展していこうというものです。そこで、開門地域行政連絡会議のような形で、「東九州観光ルート協議会」と「東九州観光協議会」が発展していけばと思います。
 

佐藤 大坪さんが鹿児島から大分に来るのに非常に時間がかかるとおっしゃっています。
今、牛飼さんから東九州観光ルート協議会を通して広がりが生まれそうだということでした。それが大分止まりになる可能性があるような気がしないでもないんですが・・・。そこで、鹿児島から大分を見て、また北九州までつなげて、今おやりになっている町並整備のインパクトを広域に向かって波及というか、情報発信するというか、その点から少し話を伺えたらと思います。
 

大坪 霧島に来るお客さんは、結構、宮崎の方が多いんです。宮崎は温泉が少ないこともあり、観光客全体の3割ぐらいを占めていました。ところが、高速道路のえびの〜人吉間の開通後は、福岡からわずか3時間で来ます。また熊本からだと午後出ても十分。そうなると割合はどう変わるか。私どもはもっと宮崎方面から来ていただきたい。欲を言えは延岡や大分から入るルートを作ってもらいたい気持ちが非常に強いのです。東側のルートを整備確保できればもっとよくなると欲張っています。
 実は私どもは21世紀に向けた街並整備に取り組んでいます。そのためにもいろんなインフラ整備面で行政にも協力してもらっています。佐藤先生もおっしゃったように、地方がトータルにカをつける必要があります。カをつけるには、基本的には社会資本の整備が必要だと思います。それを鹿児島の田舎でしてほしいと言っても、道路1本の整備にしても非常に時間がかかるわけです。といって、ただ待っていてもできません。たまたまバイパス問題に端を発し、行政を巻き込む形で街並整備計画をやろうと始めたわけです。
 県や町の関係者など50人ぐらいの組織を作り、県も14課ぐらい入ってもらいました。
そういう大きな委員会を作って、計画を進めることを約4年間続けました。その間には「私たち組合はこんなことをやります」と大義名分を作りました。例えば、建物は街並景観を考えたデザインにしますから、町は下水道を整備してくださいとか、国はぜひ電線の地下埋設をしてくださいとか、役割分担を決め、それに沿って各関係機関に努力をお願いしています。
 やはり地域が頑張ると、行政も協力するはずです。通産省の外郭団体である中小企業事業団から無利子5年据置きの20年返済の融資を利用して、施設の建て替えを行ないます。
とにかく自分たちがやれることは一生懸命やります。そうして自分たちの住む所の整備、社会資本の整備、インフラの整備をきちんとしなければ、人は来てくれません。よくソフト面が強調されて、まず人づくりだといわれます。その一方に「馬子にも衣装」という言葉もあるわけです。格好ができると、人もそれらしくなるような気がいたします。だから基本的な事は必要なのです。特に地方がカをつけるには、そういうことを地元自ら努力する必要があります。
 私どもは21世紀の街並整備を考えてきまして、いろいろな研修視察もなるべくいい物を見てもらう。あちこち見て回っていますが、いい物を見ると、いい物が作りたくなるものです。それが一つ一つ形になって表われているのかなと思います。
 

佐藤 矢野さんが仕事しておられる「うめりあ」は、国道326号線の三重町から宮崎県の北川町をつないだすばらしいルートにありますね。これも東九州連携軸の重要なルートになるのではと私は思います。国道が開通して、北川ダムの一番いい場所にうめりあを作られた。実は私も以前、地域開発の調査をした時に、まさにあそこの位置を絵に書いた記憶があります。「うめりあ」で仕事をする現在の話を少し広げて、交流基盤としての道路について意見をお聞かせください。
 

矢野 国道326号線の北川町と宇目町の境にレストランがあります。おかげさまで位置がよくて景色もよい事から、第3セクターではなかなか黒字にはならないと言われながら、今年1年は法人税を納めるようになれそうです。
 私は道路とはハードの中で、絶対必要なものだと思っています。ご存じのように宮崎の北、大分の南は高速道路が通っていません。以前は国道10号線だけでしたが、その後、国道326号線がバイパス代わりに建設されました。このルートが1本できたおかげで、例えば夜間も学級に大学の教授を招くこともできます。宇目町から駅のある三重町まで約20分なので、駅へ出れば後は列車で帰れます。道路ができれば生活が変わっていくものです。道路は開発するのが当たり前で、不可欠なものではないかと考えます。ただ東九州高速道は私どものレストランから言えば通らないほうがいいなと思うわけですが、そういう情けないことは言っておられません。もし開通したら、私たちもまた考えなくてはならないでしょう。
 さて交流と地域づくりという言葉が本日はだいぶ上がっていますが、交流は宮崎さんが先程言われた1対1の対面から始まると信じます。私どものレストランも、交流促進センターの一つですから、もちろん多くの人と交流していきますが、始まりはやはり1対1の対話から始まると思います。そこで従業員には「まず声をかけなさい、特にお年寄りには声をかけなさい」と言っています。「年寄りと露地の野菜は声(肥え)で元気になる」というのがレストランのスローガン。そして一人のお客さんの向こうには、たくさんのお客さんがいるんだと思えば、決して一人でもおろそかにできません。
 多くの人が集まってザワザワしていることが交流だという感覚を私は持っていましたが、1年間レストランを運営してきたおかげで、一ついいアイデアが浮かびました。それは「謝り班」を作ったこと。レストランは毎日曜日、実は満席になります。それも11時から2時ぐらいまで人が並ぶわけです。当初の5月、6月、7月は単に人を並ばせていただけで、席に着くまで何の案内もしませんでした。ですが途中で、従業員が「トラブルが多すぎる」というので、謝り班を作りました。客が並んでいる入口で「大変恐れ入ります、あと何分かかります」と謝りながら案内するわけです。
 その時にさらに「どちらからおいでになったんでしょうか?まあ、遠い所から!ありがとうございます」と必ず会話するよう努めています。この謝り班がうまくいけばいくほど、もし従業員がラーメンをこぼしてもお客さんは怒らないものです。お客さんもいいイメージを抱いてくれますし、「また来るけんな」、「おいしかったぞ」との声もいただき、会話がどんどん増えてきた気がします。交流は1対1から始まるんだなとつくづく思います。
 また地域づくりでいえば、「地域づくり」という言葉を発する団体ほど怪しいと私は思っています。「自分たちは地域づくりをやっていますよ」と自ら言う団体が多過ぎるのではないでしょうか。そういう団体に私は「ちょっと考えてみてください」と言いたくなります。私は県南落語会という落語の会を作っていまして、これまで11年間で出張寄席を約800回してきました。大分県下は58市町村全部回りましたし、今は熊本、佐賀の方へ出かけています。それで分かったことは、好きでなければ長続きできないということ。
自分たちがやっている事が本当に自分にとって楽しいか、そして自分も好きなのか、を原点にしないと長続きできない。さらに思うのは「自分等は楽しんでいるけど、相手に迷惑をかけているなら、それは地域づくりとは言えないな」という気持ちにどんどん変わってきました。今、うちの会では地域づくりをやっているというよりは、もし相手が「そうじやないぞ、よかったぞ」と喜んでくれた時には素直に喜ぶようにしています。レストランの仕事のほうも今大変楽しく、ひょっとするとお客さんに迷惑かけているんじゃないかと思いながら従業員と働いています。
 少し横道にそれましたが、東九州という地域から考えますと、今まで高速道が通っていなかったということは、逆に考えれば、高速道が通ったおかげでいい物が無くなったり、消えていったりしたはずです。だから通っていない分、まだ守られ残っているいい物もあるぞという観点を持てると思うのです。するとこれから先、東九州高速道ができても、他の所よりちょっと違うものが出せるんじゃないかと思っています。
 

佐藤 今までお話しいただいた方々は、交流を基盤にした地域連携軸の素地を作っておられます。その上に立って、柳田さんは直接、東九州の高速道路、交通軸を作ろうと活動されているわけですが、これからどういう形で進めたら、われわれの望む姿になっていくのか、また早期建設にかかれるのか、その辺で何かお考えがあればお伺いしたいのですが。
 

柳田 なかなかむずかしい問題です。矢野さんも話されたように、今、みんなが一生懸命、地域づくりをしています。延岡でも祭りなどを通じていろんなものを作りだしたり、一生懸命です。楽しみながら、あるいは「きついな」と息切れしている人たちもたくさんいます。どこの地域も、頑張る人、どっちでもいい人、また言ってもだめな人といるわけで、そのうちの1割か2割の人が頑張れば、後の6割ぐらいの人はついて来ます。私は活動から運動に変えてきたわけですが、やはり何とかできるまで頑張ろうという気持ちでいます。
立場的には前線を卒業して、現役に任せているところもあります。運動の落とし穴は「継続はカ」でして、継続はしているが、何か同じ事を繰り返している。前の人がしてきた事を繰り返して、それで安心してしまっている人が多いのです。そうではなくて、何のために高速道路を通すのか、何のために運動しているのかというその辺の基本は常に問いかけ、方向を間違えてはいけないと思います。連携軸についての考えですが、ふるさと創生などいろんな事が出てきて、全国の市町村にもいくつもの町づくりの団体ができましたが、右往左往してるのが現状です。かなり行き詰まってきている部分もあるかもしれません。今度はだから、連携軸を使ってさらに次の段階に行こうじゃないか、というのが本日のテーマの一つの方向かなと思います。  どんな事にも後のプラス、マイナス、前のプラス、マイナスがあります。良い事ばかりじゃありません、悪い事もあります。だからまちづくりの足腰を今、しっかりするのは当り前のことです。将来、子供や孫が「よし、頑張ろう。でも道路がないと勝てない」と思った時に、道路ができていないと困るわけです。町は先祖から頚かった土地と同時に、子供たちから預かっている土地です。今の私たちが責任を持って種をまかなければいけない。
「長くかかりそうですね、無理ですね」とつい言いたくなりますが、「来年は通そう」と地元の東九州の人たちがパワーを出せば、全国の予算の1割だけじゃなく、何割かをこの九州に持ってくる事ができるはずです。そしてみんなのまちづくりを大きく早く実現していけると私は信じています。それには官と民と一体となった方が良いと思います。ただ行政は民間を信用しない、民間は行政の悪口ばかりといったふうで、官民一体になるのはなかなか難しい。しかしお互いに良い所、悪い所があるわけですから、それを噛み合わせることもパワーになるし、ぶつかり合うことで大きなエネルギーが生まれると思います。そうやってぶつからないと、なあなあで終ってしまう。そういう思いで官民一体となり、高速道路早期実現へ向けてさらに進めていきたいと思っています。
 ところで連携・交流を深めることについてですが、まちづくりについて自分の町以上には県内のこともあまり知らないものです。自分のことを知らないと、人にもものが言えません。東九州軸の宮崎が今どうしているとか、例えば宇目町にししラーメンがあるのなら、南郷町には鹿がいるから鹿ラーメン、北川町道の駅に鳥ラーメンを作って「猪鹿蝶(鳥)ラーメンルート」を作ったらどうだろうかと、先程フツと考えたりしていたわけです。そんなふうに楽しく情報交換して、何かいいもので連携・交流して、それを具体的にしていくというのが大切じゃないかと思います。延岡には10年ほど前から延岡一竹田一柳川をつないだ文学ルートがあります。若山牧水が延岡市、大分の竹田市は滝廉太郎、福岡県の柳川市は北原白秋が出ています。ルート間での交流はしていますが、交通がネックで観光客はほとんど来ておりません。竹田と柳川は行き来があるようです。お祭ではお互いの観光物産販売を行っておりますから物は売れています。行政だけで難しい場合は、民間を巻き込めばいいと思います。民間は行政の枠を超えて、すぐ飛んで行けます。21世紀は、観光が核になるといわれています。九州は、ほとんど九州内で動いていますので、新たな話題の広域観光ルート開発が必要と思います。この会場の前列の人に酒ゼリーを置いています。これは友人が一生懸命作ったものです。ワインゼリーがあるから酒ゼリーがあってもいいんじゃないかと、焼酎の蔵元と提携して酒ゼリーを作りました。中年の女性には評判がいいようです。こうした地場産品もどんどん開発しながら、連携していったらいいんじゃないかと思います。ですから、大変ですがまず自分を知って、それからもうちょっと足を延ばしていただく。視察流行も多いようですが、もう少し気合いを入れて見て来ること。そして今日の話にありましたが、1対1になって、名刺交換だけじゃなく、どんどん後の交流のために葉書や物のやり取りをしていければもっと広がるのではないかと思います。目の前の今できることからやって行く。それが一番の近道というような気がしております。
 

佐藤 自分でおやりになっているいろんな運動を他の地域と連携するという要素を持っておられます。宮崎さんは地域連携ができる要素というか、いろんな意味での拠点ということになるわけですが、そういう物の代表格(横)として大分県には湯布院がありますね。
その湯布院が今、大きく変わりつつあるという最近の情報がありますが、連携できる拠点、あるいはコアとしての湯布院についてお話を伺いたいと思います。
 

宮崎 実は先日、由布院が「ゆふいん親類倶楽部」というのを作りました。由布院はもともと農業をベースにした町で、この農業と観光を生かしたものを次に打ち出していこうということなんですね。その前に、分かりやすいように一つお話しておきます。
 それは昨年、本日のコーディネーターの佐藤先生といっしょに、大分県の21世紀の産業振興をどういう方向に進めるかということで勉強させていただいた事があります。その時、私たちは観光という側面で「ゆとり豊かさ創造型産業検討部会」に所属しました。21世紀といっても2010年を対象にしているんですけれど、観光の行方についていろんな意見を出し合ったわけです。その行方の一つが、例えば今までは福岡などの都市に行って、何か面白いものを見るという都市型観光でしたが、これからは自然や文化を楽しむ文化型観光へ移行するだろうという事です。自然や文化にはスポーツ、アウトドア、最近はボランティアも入っていると思うのですが、そういったものに移行するだろうと思われます。もう一つはお金を消費する時代から、時間を消費する時代へ移行するんじゃないか。
つまり移動型から滞在型へ私は変わってくるのではと捉えています。団体でまとまって行き、バーと見て、パーと帰るというのではなく、そこに留まり、さらに体験する。体験としてはスポーツとか菜園体験とか、そういった分野のこだわりや目的を持ったものが生まれてくるんじゃないかと思うんです。
 先程、矢野さんも対面の話をしていらっしゃいましたが、一人一人、その地域の人と対面すると当然、時間も長くなって、そこに交流が生まれると思うんですね。先日のゆふいん親類倶楽部のシンポジウムに、溝口さんとおっしゃるシイタケと農業の兼業で、3年前から農家民泊を始めた方がおられました。私はたまたま取材する機会があったので、どうしてそんな事を始めたんですかとお開きすると「農業ではシイタケも最近輸入ものが増えてきたし、このままではちょっとつらい。自分たちが先祖から持っている土地をベースに何かできないかなと思った時、自分が作った安全で自信の持てる食材でもてなすことができんだろうかと考えました」とおっしゃった。農家民泊は自分の農家にお客さんを泊めて、料理の好きな溝口さんですから、それこそ鹿肉とかも食べさせる。そして収穫も体験させるのだそうです。体験内容としては作業体験はだめで、収穫を体験させるのがいいそうです。トマトをもいだり、トウモロコシを収穫したり。「農作業からせえ、といっても今の人はしたがらん。農家民泊といいながらも、結局は収穫体験が一番喜ばれる」と彼は言ってました。
 そんなことを溝口さんは3年前から実践していましたが、今回、「ゆふいん親類倶楽部」ができ、その中でグリーンツーリズムという言い方が出てきました。溝口さんは「そんなことは俺は3年前からしよる」とおっしゃっていました。そういう形で都会の人たちが、その土地の暮らしの中に、いっしょに入っていく。つまりそれが土地、土地の交流、そしてコミュニケーションが生まれることだと思います。そしてゆふいん親類倶楽部とは、東大の先生が話していましたが「私のふるさとをそこにつくる」ことだと。私のふるさとを見つける作業、その象徴がゆふいん親類倶楽部だと私も思っています。私のように都会で仕事ばっかりしていますと、最近、何か作ってみようという思いがフツフツと沸いています。収穫体験のようなものが一番いいと思いますが、それをどこで見つけようかと一生懸命探しているところです。多分、そういう人たちはどんどん増えてくるでしょう。観光という切り口を考えた時、今話したような要素が東九州にはたくさんあります。自然、テーマパーク、人情もあります。それは文化型でもあるし、滞在型でもあります。交流コミュニケーションもできます。それに以前はどこかに行くということは大事(おおごと)だったんですが、今、気軽な事です。気軽に私のふるさとに行く、そしてそこでいろんな事を体験して、交流する、という要素を東九州はたくさん持っている。だからゆふいん親類倶楽部はとてもいい切り口だと思うし、これからの観光の方向を全部ひっくるめてよくわかる切り口で提案されているなと納得しました。私は情報を提供するのも仕事の一つでついこんな話になってしまいました。  
 

佐藤 井上さんは筑豊で町づくりグループの連携をいろいろやっておられますが、具体的に活動の内容をお聞かせください。また自分たちは東九州軸の外側にいるじゃないかと言っておられたのですが、私はあまり東九州ということでガチガチに考える必要もないんじゃないか、もっと破く、柔らかく、しなやかに考えていいと思います。それで少し広げて話を伺えませんか。
 

井上 筑豊は位置的には東九州からやや外れておりますが、今日、皆さんの話を聞いていると大変な熱意を感じます。この東九州の充実のためには2つキーワードがあります。
1つは国際化戦略の中の九州の域内交通、もう一つは宇宙へのアプローチロードです。若田さんがミッションスペシャリストとして成功されましたね。君田さんは博多ラーメンが大好きで一生懸命、PRしてました。いずれは博多に住みたいという事で「宇宙時代が来ると九州が浮上するんじゃないか」といった事も少し匂わせておられました。そういう意味でこの東九州軸はサークルロードとして重要になってくるんじゃないかと思います。そういうマクロ的見方で声を上げていくと、東九州軸の整備、充実に対してもう少し大きな賛同が得られるのではないかと考えています。
 私たちが実践している連携は、国際化を切り口にしています。飯塚市は人口8万4000人でそれほど大きくない町ですが、2つの4年制大学と1つの短期大学があり、人口からいえば特異な学園都市です。ここに留学生がたくさん来られていまして、その方達は中国、韓国、台湾、インドネシア、マレーシアなど、ほとんどアジアからです。こうしたアジアからの留学生を支援するネットワークづくりを行なっています。留学生でも公費の場合はそうでもありませんが、私費留学の場合は苦しい経済状況の中で日本の技術や経済活動を学びたいと留学してきています。私費留学生は3分の2います。この人たちは長くて2年、短い人は3か月の期間で、滞在中の住宅設備はわざわざ購入しなくてはならない状況です。それは留学生にとっては大変なことです。そこで、私たちはいろんな情報や物を提供して、彼等の留学生活を支援していこうというものです。
 具体的な支援として、時間は無いけどお金は出せるという人たちからは年間4万円ずつ寄付をしてもらっています。またお金は無いが時間はあるよという人たちのネットワークも組みました。市民から電化製品等の修理すれば使えるようなものを提供してもらい、それを技術を持ったネットワークの人たちに修理してもらいます。こうした物品を保管する倉庫を寄付金で建てました。そしてそれらを必要としている留学生に無料で貸し出すというシステムを作ったわけです。支援ネットワークは2年目ですが、今度は留学生の開から「自分たちが援助してもらうばかりでなく、何か地域のためにしたい」と申し出があり、現在、中学校で派遣講師として、それぞれのお国事情などを話してもらう特別授業をしてもらっています。こうしてお互いのネットワークを深めていき、先程の話のように1対1の交流から国際的な交流に発展していくのではないかと期待しています。こうした事が実現できた土壌としては、我々の団体は国際車椅子テニス大会の支援を10年前から続けていまして、国際ボランティアに対する思いが熱いということも含まれているんじゃないかと思っています。
 東九州軸について言えば早く情報、交通の面で充実し、人と物との交流がスムーズにできればいいなと思っています。私たちは地域づくりネットワークの講師を招く時、今はどうしても西九州や、熊本、鹿児島が多くなるんですね。それは交通事情などの時間的な問題によるところが大きいわけです。それがクリアできればもっと交流が密にできるのではないかと思います。
 

佐藤 事務局長の兼尾さんから「筑豊は東九州軸の中にある」と伺いましたので、ちょっと訂正させていただきたいと思います。では最後に、今日は多彩な意見が出ましたのでまとめるのが苦しいのですが、感想も含めてということでご理解いただきたいと思います。
6人の方の非常に幅広いお話を伺い、東九州の地域は連携を深めながら発展できる要素をたくさん持っていると私は感じました。典型的なことでは、牛飼さんから東九州観光ルート協議会を作ってつなげて行こうという詰も出ました。連携できる核としての要素をさらに豊かに大きくしていかなければなりません。つなげていくためには当然、ハードとしてのルートの確保が必要です。大坪さんは東九州のルートの確保が絶対必要だとご自身の運動の経験から感じておられます。また柳田さんはルートづくりのために最先端に立って活躍されています。
 ただ、我々ももどかしく感じるのですが時間が若干かかりそうです。当面は自分たちにできることを幅広くやって行くことが必要です。つまり連携できる要素を広く大きくしていくことにもつながるわけですが、レトロの街づくり、あるいは霧島の町並整備などが現時点では重要になってきます。やはり住む側の自分たちが「住んでよかった」、また「住みたくなる町」を作るというように定住基盤をしっかりすることが、他地域との連携交流を深めようという動機づけにつながるような気がします。
 矢野さんからは「高速道路を作るのはいいけれども、作ったことによって失われるものもあるんじゃないか」、従って「今、通っていないから残っているもの」という面白いご意見もありました。東九州高速道を作る場合には今、残っているものを大事にする東九州らしい地域連携交通軸を作ったほうがよいという話です。柳田さんからは地域が連携するための新しい組み合わせ、ここでは猪鹿蝶(鳥)のルートという話がありましたが、ハツとさせられるような発想ですね。古代から現代までの交流の豊富さを、今の時代も考えたほうがいいのではないかと思います。また、宮崎さんは湯布院の親類倶楽部もソフトの面からの新しい連携を作り出そうという示唆に富んだお話でした。最後に、井上さんから国際化の話がありました。この国際化の視点が東九州の場合、もう少し強調されていいんじやないかと思っております。ハードとして国際化に結び付けていけば、例えばTS L(テクノスーパーライナー)ですが、人と人が心を結びあって地域連携あるいは国際連携していく視点を東九州でさらに深めて行けないでしょうか。これは大分の事例ですが、別府に立命館アジア太平洋大学が数年後に開校予定です。くしくも今日の東九州連携のシンポジウムが開かれた別府が国際的な地域連携の窓口になるのではないかと私は期待しております。 まとめになったかどうかわかりませんが、これでパネルディスカッションを終らせていただきます。どうも長時間ありがとうございました。

質疑(会場からの意見)私は鹿児島県鹿屋市から参りました。柳田先生の東九州自動車道のお話は非常に心強く感じております。実は私もその方面の仕事をして、昨年も3回ほど建設省や大蔵省、九地建にもおじゃましました。建設省の藤井事務次官は「ここに陳情してもインパクトが弱い、連携して、皆さんのカを集中しないと私たちの心に訴えるものがない」とおっしゃるんです。今年2月9日に東九州地域都市圏連携推進協議会ができて、福岡、大分、宮崎、鹿児島の各行政と、経済団体で陳情に行っても同じことを言われました。やはりこういう会議の模様を一つにまとめ、中央に陳情することが准進のカになると考えます。やはり連携した大きな団体を作って陳情する必要を強く感じています。
この会をさらに発展的にして、署名活動も100万人、200万人集めて中央に持って行くことが必要じゃないかと思います。今年の11月か12月に国幹審(国土開発幹線自動車道審議会)が開かれますが、この正念場に向けて東九州軸がまとまり、組織化することが必要だと思っています。私が感じたことを少し申し上げました。

佐藤 ご意見、ありがとうございました。