西日本交流会議日田玖珠大会

第5分科会

 

 

 

○司会

 

西日本交流会議日田玖珠大会で全体会議後の第5分科会ということで大変お疲れだと思いますが、ただいまから第5分科会を開催させていただきます。

 まず最初に、天瀬町長高倉柳太が皆様に歓迎の御挨拶をいたします。

 

○天瀬町長(高倉柳太)

 

 私が町長の高倉と申します。

 本日は西日本交流会議全体会議に1,000人の出席があって、盛会に終わったわけでございますが、当天瀬町に、遠くは東北の宮城県から沖縄県までそれぞれの村おこし、地域づくりの皆さん方が集まっていただきまして、大変うれしく思っておるところでございます。

 先ほどから天瀬町の温泉熱利用のバラ団地を御視察いただき天瀬町の風の一部を感じとっていただいたんじゃないかと思っております。

 私は平成3年の4月の統一選挙で町長に就任したわけでごぎいますが、平成3年の9月の台風、そしてまた今年の台風、大水害ということで、大きな歓迎しない風ばっかり受けておりまして、まちづくりにつきましてもこの災害復旧等に追われましてかなりなおくれが出ておるというのが実情でございます。

 きょう皆さん方おいでいただきまして、「地域資源を生かし都市と農村の共生を考える」ということで分科会が持たれるわけでございますが、現在日田までほ九州横断高速道が開通しており、日田から湯布院間まではまだ工事中でございます。日田から玖珠インターまでが平成6年度、平成7年度で大分まで全線開通するという計画があるわけでございます。そういう中におきまして、まちづくりということでございますが、天瀬町におきましても温泉街にのしかかるように別荘地ができておりますし、またきょう見学されました総合運動公園の近くにも別荘地ができつつあります。両方合わせますと約200戸近く建設されております。これは何を意味するかと申しますと、福岡都市圏が123万人、北九州都市圏が104万人、あるいは久留米、佐賀、また熊本、そして大分を合わせますと、大体400万人近い都市圏の人たちがこの天瀬温泉の近くにあるわけでございますし、高速が通りますと1時間足らずで来れるというような利点、この道路アクセスの整備を初めとして町内の環境整備を整えながら、都市の方たちと交流を図っていきたい、そして活力を見出していきたいというふうに考えておるわけでございます。

 幸いに、平成4年度は県と町とで「若者の定住と過疎からの脱却」をテーマに「過疎地域定住促進プロジェクト推進計画」を立てたわけでございます。その題目は新風、新芽、そして新進を呼ぶ天瀬の創設ということをキャッチフレーズにしておりまして、基幹産業であります農林業と連携した触れ合い観光の拠点の形成と、それから自然環境のよさと温泉地の再発見、また川辺でのせせらぎ等触れ合いの拠点づくり、そのほかにも地域に人を呼び込む施策の強化というようなことを挙げております。

 なお、町の商工会におきましても、平成3年度に村おこし事業計画を立てまして、本年度が特産品の開発、あるいは観光資源の開発ということで取り組んでおりまして、この実行委員長にはパネラーの片江先生がなられており「心安らぐ露天風呂、心豊かな高塚さん、心広がる花の里」をキャッチフレーズとしております。

 温泉熱利用につきましては、平成3年度までが参加者18名で40棟、3億2,000万円の販売高があります。これを今計画では60棟に持っていこうということでやっております。若い就農者が自己負担が大きいというような問題等があったため町と農協で協力しまして、天瀬町の農業公社を設立しました。そして、リースで貸し出していこうということで計画をいたして、平成3年に東京、あるいは大阪で地域就農者の募集をいたしましたところ、40名程度の方が参加したいと申し出がありましたが、Uターンを含めまして7名程度しか入れないというような状況でございます。

 各グループの活動状況でございますが、まず「あぜ道グループ」7名の方で大体今年4,000万円の売り上げがあります。また、高塚地蔵尊の近くに北平食品加工組合というのがありますが、ここも地元の7名の御婦人方で運営をしており、7,000万円から8,000万円、合わせますと1億円を超す産業に成長しております。山すそにおきましても生シイタケ、あるいは干しシイタケはもちろんでございますが、シメジの生産に取り組んでおり、その原菌工場は農協が持っております。

 あるいはこの温泉街におきましても、上流に湯山発電所というのがございます。石づくりの発電所で余り目立ちませんが、すばらしい建物があります。この水辺を大切にして、そして環境整備を図りながら地域の発展を考えていきたいと思うわけでございます。この発電所のそばには1,217段の階段を設けまして昇りついたところに顕徳坊さんというのが祭られております。この顕徳坊さんは山形県の出身ということで、この地で果て、その際に東北の方を向けての墓を建ててくれということで、地元の人がそれを集って現在に至っておるわけでございます。また、高塚地蔵尊は霊験あらたかな地蔵尊で年間250万人という参拝客があります.

 そういう都市圏から近い地域に天然の温泉があり、有名な高塚地蔵尊、また自然のすばらしい五馬高原、そして天瀬独特の文化、あるいは文化財等もあるわけでございます。どうか皆さん方は今からのわずかな時間でございますけど、パネラーの先生方、コーディネーターの先生方等あわせまして天瀬のまちづくり、そして都市との交流関係につきましてゆっくり、短い時間でございますが、御歓談をいただきたいと思います。

 最後になりましたが、皆さん方のそれぞれの地域におきますところの村づくり、地域づくりに健勝で、そして頑張っていただきますよう御祈念申し上げまして歓迎のあいさつにかえさせていただきます。大変ありがとうございます。

 

○司会

 

 それでは、早速パネルディスカッショソに入りますが、その前にこの分科会終了後、町内のホテルにおきまして交流会があります。御案内しますのでよろしくお願いしたいと思います。

 それでは、まず資料に基づきまして第5分科会のテーマと、それからコーディネーター、パネラーの方の御紹介をさせていただきます。

 第5分科会テーマ「地域資源を活かし都市と農村との共生を考える」、サブテーマといたしまして、ただいま町長のあいさつの中にありましたように、高速道が平成6年度末に開通予定となっておりますので、天瀬町として「高速道時代を迎えた湯の国天瀬の地域づくり」ということでサブテーマを設けました。

 それでは、コンセプトを読み上げたいと思います.道路を中心とした公共交通網の整備が進むにつれ、人の移動がますます盛んになってきている。さらに就労時間が短縮されたことにより、よりよい地域を求めて余暇時間を楽しむことがライフスタイルとなっているのではないでしょうか.都市と農村を比較すると、それぞれの地域で悩み事が発生しています。特に農村部は日本経済の成長に伴い働き手が都市に流れ、大都市近郊の市町村を除いた大半の地域が過疎地となっており、主産業である農林業の衰退が著しい状況となっております。

 一方都市部では人口の密集により、住宅難、交通渋滞、さらにほ大気汚染等、生活環境はそれほどよくないようです。 これらは急速に経済が成長したことによる弊害だと思われます。この問題解決に対して都市と農村がどのようにかかわっていくかが問われているのですが、その一つの解決方法として交流を通じてお互いが満足いく生活を送ることだと思います。それでは、交流に際して農村地域では既存の資源を活かしながら、どのような環境整備をしていくかが課題となってきます。それはまず、地域の人が十分満足でき、あわせて都会の人からも好まれるものでなければなりません。そういった農村地域の環境整備につきまして、本分科会で討議していただき、まちづくりのあるべき方向を模索してみたいと思います。

 それでは、先生方を御紹介します。

 まず、本日のパネルディスカッショソのコーディネーターをしていただくのは大分大学工学部教授、佐藤誠治さんであります。先生は昭和23年生まれで、日本建築学会、日本都市計画学会、都市住宅学会の会員で、また大分地域商業近代化推進委員会委員等、数多くの委員をされておられます。

 続きまして、パネラーの御紹介をさせていただきます。

 まず初めに、片江欣夫先生であります。先生は昭和2年佐賀県生まれ。昭和22年西日本新聞社に入社され、政治部、社会部の記者として活躍されました。村おこし事業の実績としては、福岡県山川郡山川町商工会を初め数多くの実績があります。

 続きまして、後藤完一先生の御紹介をいたします。後藤先生は昭和18年大分県生まれ。

昭和41年通商産業省福岡通商産業局に入省。現在は総務企画部の調査課長であられます。

著書といたしまして、九州焼き物ほか数多くの著書がございます。

 続きまして、地元のパネラー2名を御紹介させていただきます。

 まず最初に、萩原了一さんを紹介いたします。萩原さんは昭和6年生まれ、昭和28年日田高等学校を卒業されまして、卒業後農林業に従事。現在町内杉河内地区の指導者として活躍中。現在天瀬町農業委員の2期目を務められております。

 最後になりましたが、佐藤るりさんを紹介いたします。昭和34年福井県勝山市生まれ。昭和57年筑波大学芸術専門学部を卒業。昭和63年佐藤天親さんと結婚され天瀬町に来られております。美術の絵画の個展も数回開いております。地域活動といたしましては「ゆうゆう天瀬」のスタッフで頑張られております。

 それではコーディネーターの佐藤先生よろしくお願いします。

 

○佐藤誠治

 

それでは、早速ディスカッションを始めたいと思います。今回第5分科会の最大のテーマというのは「地域資源を活かし都市と農村との共生を考える」。また今回の西日本交流会議のメーンテーマといたしまして「感じてください 緑の風を」が設定されております。先はど全体会で知事の講演もあったわけですけども、そういう中で「風」というのは一体何なんだろうかというのが大体皆様方イメージできてきたんじゃないかなと思います。

 ディスカッションに入ります前に、若干テーマを掘り下げて、私なりに方向性を出しまして、そして皆さん方に発表していただくという手順で行きたいと思います。

 地域づくりを考えるときに、その地域が持っている資源、これをいかに活かすかということが大事なわけで、キーポイントはこの地域資源をいかに見つけていくのか。そしてその価値を見いだして、いかに組み立てて新しい動きをつくり出していくのかということが大事なんじゃなかろうかと。その動きというものは、きょう知事が講演中でおっしゃったような意味で風ということなんじゃなかろうかなと思います。

 そういうことをまず念頭に置きながら、第5分科会のテーマ、都市と農村が地域資源を使って共生する姿というものをどういうふうにつくり出していくのかということになってくるだろうと思います。この共生というのは、例えば広辞苑を見ますと「ともに心同じくして生活すること」というふうに書いてあります。生物学的には「別の生物が1ヵ所に生息して互いに利益を得て共同生活を営む状態」と、そういうふうな定義がなされておりますね。同じ場所で、同じ空間を共有しながら都市と農村というのはあり得ないわけで、したがって私は先はど町長がおっしゃったような意妹で、都市の住民と、それから農村地域の住民の交流によって共生がなされていくだろうというふうに考えているわけです。したがって、共生というのをそういう意味でほ交流ということに置きかえてもいいだろうというふうに思っております。その共生する、あるいは交流する舞台が実は今回ここで考えているのは、天瀬の地域であるんだと思うんですね。そして、その舞台をつくり上げる大道具、あるいは小道具というのがこれが地域資源であろうというふうな解釈がなされるんじゃないかなというふうに考えるわけです。

 そういう観点から議論を進めていくわけですけれども、きょうは非常によいキャスターをお迎えしておりまして、地域に詳しい方々、あるいは客観的な目で見れる方ということで、町外からお二人、それから町内からお二人お迎えしております。

 舞台を天瀬の地域に限っておるわけですけれども、町外からお見えの方には一般論的な議論の展開をお願いしたいというふうに先ほどお願いしております。ただ、後藤さんにいたしましても、それから片江さんにいたしましても地域とつながりが非常に深うございますので、天瀬、これをどうするかというところに最終的には議論していくだろうというふうに思っております。そういう中から一般論的な法則性といいますか、地域づくりの手法といいますか、そういうものをきょうお集まりの皆さん方には抽出していただきたいなというふうに考えております。

 

 それでは、早速ですが後藤さんよろしくお願いします。

 

○後藤完一

 

 地域資源を使ったまちづくりというのは、村おこし運動が始まったときからずっと言い続けられてきました。しかし、あれ以来もう十数年過ぎてるんですが、過疎のとまった町というのは全くございません。むしろ過疎の進んでる町村は増えてきております。なぜだろうということをここらで本当にまじめに考えなければ、過疎問題の解決にはならないと思います。一番最初、私も一村一品、村おこしといったって何ができるだろうと。実は、みそ、たくわん、しょうちゅうばかりでござ

いました。日本たくわん列島までくりひろげ宅急便で出してみたんですが、宅急便の過当競争で結局惨敗と。それで慌てて今度は人づくりの方へ。村おこしは人づくり、あれやればいい、これやればいいといったけど、人は全く育ちませんでした。そして、ふるさと創生1億円が出てきて、さあ何かをやろうと。地域資源がない町は何をやるか。温泉がないか、湯布院は温泉があったから成功したいとうことに気づいたんですね。みんなボーリングして掘った。ぼっこぼっこ。270ぐらい掘った。温泉というものは出てきませんでした。水しか出てこなかった。それで、今度はアイディアを出せとやんやんやってきたところが、今度はめんどくさくなったんで、基金を積み立てて人材育成基金なんてものをつくって後で何かを考えましょうとやったんですね。

それで、一番ばかばかしいのは金魂を買ってきて、見せて盗まれたという町が出てきたということでございます。それでも、なおかつ集まらない。どうしたらいいかと。今度は全国の町や村で太鼓をたたき始めたわけですね。何とか太鼓、ぼんぼこぼんぼこ、全国どこにでも太鼓だらけでございます。その太鼓が上手であればいいけども、保育園の子供たちがよっぽどましな、鼓笛隊より下手な太鼓だらけでございます。 太鼓がないと村おこしじゃないと言われるぐらい太鼓ブームでございます。

 もう一つ、なぜ過疎が進むんだろうかという根本的なところを全く考えない。それは大規模営農化が進んだということがあるんだろうと。そうすれば当然人が要らなくなる。2つ目は日本人の社会的存在をパフォーマンスするところがないんですね、地方には.日本人の根っこ中には、東京にいる人が一番偉い人で、その次に地方中核都市に住んでいる人、関西に住んでいる人が偉くて、そして地方に住んでいる人は落ちこぼれだという認識がある。だからこそ地方から全部都会へ出してしまうんです。親御さんたちが。もう農業はおれの代で終わりばいと。もうおまえは出ていけ。この町にはおらんでいいと、みんな追い出してしまったんです。そうしながら、そうした無責任な人たちが過疎問題何とかせえと。過疎になったから人口を増やしてくれ、、どうしたらいいかと。何のことはない。自分の息子は全部出してる。そんな人がどうして役員さんや商工会長さんになって他人様に向かって公共奉仕しなさい。過疎対策をしなさいと言っているんですかね。どんな事業をやろうとも親御さんたちはおれの息子や娘をこの町で残しておれの後を継がせるんだという確信を持たない限り、私は過疎問題の解決は絶対にないと。つまらん事業をして先進地見学をすれば過疎問題が解決するなんてことは絶対にないと思うんです。今や生まれる子供たちが25人で、死ぬ人が60人や70人の町が全国至るところ出てきたんです。これはそうなって当たり前です。親御さんたちは自分の子供や息子を全部追い出したわけですから。

そのことを自覚することが必要なんだと思います。

 観光施設を整備して都会のお金で豊かになればひょっとしたらわが町は、過疎が止まるかもしれんと考え、豊かな自然を生かして都会の人たちにゆったりと休んでいただきましょうと。今、全国の市町村ではほとんどの町が環境整備していろんな施設をつくって、都会の人たちに来てもらうように仕組みをしてるんです。みんなその過当競争です。しかし、都会からは来ません。

 なぜかと。受け身なんです。自分たちが都会へ打って出ようという考えは全くない。そこに根元的な問題があろうと。その点、私はこの日田郡市の農場参加、大山の木の花ガルテンというお店を今、長住と松崎、福岡本店に出しました。これこそ打って出るという積極的な経営と。買いに来るのを待っとってもお客さんは来てくれないです。むしろここでつくったものを自分たちがお店を持って都会へ打って出るという格好になれば、それが一つの大山ブランドをつくり、日田広域のブランドをつくっていくと。それが情報発信なんです。私はまさに木の花ガルテンがこれからの一つの地域センターのあり方を示していると私は思っております。そして、この木の花ガルテンのおかげでどんどんと日田広域の名前は急速に上がってきています。長住の売上金が1日に50万円、松崎が35万から40万いくんですね。本店は100万ぐらい。そしてその農産物を通して日田ファン、天瀬ファンをオートポリスファンをつくっていくんです。 大山ファンをつくっていくそれがブランドですね、結局は。これのまさに受け身からせめへの発想の転換をしなきゃまずいかんだろうというのが1点です。

 2つ目、お客さんが来てもらうのに、荒れ果てた野や山を見せることが自然と錯覚を起こしてるんです。日本人の好む自然観を全くはき違えている。風倒木のあるような自然を日本人は全然好みません。今回のリゾートブームでリゾートとして生き盛った自然は何だと考えてみたら、テーマパークとゴルフ場だけだったんです。ゴルフ場とテーマパークは何で残った。すべて人間が手を加えた自然なんですね。そうでしょう。お寺の庭園を見に京都なんかに行くはずです。これもつくられた造形です。日本人の好む自然観というのは手を加えてきれいな自然であるということを忘れてしまっているんです。汚い自然、荒れ果てた自然を環境保全というのは全く間違いであろうと。すべて手を加える。日本人は田んぼでも手を入れないとおちつかない。ですからきれいな水、ほとんど農場生産と関係のない田の草取りといって、きれいにしてしまうんですね。まさに掃き清められた発想をしておると思っております。 荒れ果てた自然を地域資源と称してお客さんに来ていただこうと思っても、全く来てくれません。都会の人はあんな雑踏の中にいるから、この荒れ果てた自然がいいんだと錯覚を起こしている人がよくいます。今考えなければいけないのはきれいな自然なんです。造形された自然、これが観光資源になり得るということなんです。

それを湯布院の人たちは磨き上げていくという発想に立っているわけなんですね。

 3つ目に必要なことは都市型センスいうことが必要だということです。農村だからやぼったい、田舎臭い、土臭いものを私は資源とは言えないと思うんです。田舎であろうと地方であろうと都会的センスのない地域は全部人口が減っているということです。なぜ大山か。あそこの人たちは世界へ向けて走り回っとんです。なぜ都会の人たちがあの田舎町だった湯布院に行くか。あの町の中にある空間の中に都会的センスを感じるからで、映画祭、音楽祭、すべて都会的センスの関係のあるものであるということを忘れないでほしい。今まちづくりで成功している全国の町村を回ってみまして、都会の人たちはよはど都会に住んでるやつより都会的センスを持った空間へ押しかけていくわけです。日本人は農村の自然が嫌いな民族だということに気づいたんです。かぐや姫も一寸ぼうしも金太郎も全部都会へ出て行ってめでたし、めでたしで終わるんですね。じゃ、農村は何なのかと、残ったのは。 日本昔話というつまらん漫画番組がある。キツネとタヌキとカッパとかに諭されるばかみたいなしかいないというのがあの番組なんですね。僕はあの番組を見てなぜ地方の人が怒らないのかと言い続けているんですよ。本当は日本人は都会的で見えっぱりで寂しがり屋の民族ですから、みんな都会へ出て行きます。となれば、その都会的センスをどうつくっていくのかという感性が求められていることを申し上げて第1回目の発言を終わりたいと思います。

 

○佐藤誠治

 

 どうもありがとうございました。

 続きまして、片江さんお願いします。

 

○片江欣夫

 

 片江でございます。

 福岡市の南区の大橋というところに住んでおるんですが、何分で参ったかといいますと、1時間10分でございます。これはどうなるかといいますと、今町長さんのお話にもございましたように、2年そこそこで天瀬のとこまで高速道路ができますと、完全に天瀬と福岡の距離というのは約1時間で行けるということになってくるわけでございます。

 今社会は車社会といいますか、あるいは新幹線もあんなに速くていいのかと思うぐらいでございますけれども、より速く、より豊かにというふうな問題がここに一つ本能的な問題として存在するわけでございまして、まさに昔は博多までは遠いと、あるいは別府の方が近いと、こう距離感覚が完全に時間帯だけに変わってきたと。これはもう全国共通の問題だろうと思います。

 そこで、この天瀬の仕事をさせていただきまして、しょっぱなから私が心配しております問題は、これは全国各地に共通する問題と思うんでありますが、この天瀬のところに高速自動車道が延びてきた瞬間に、つまり福岡というただいま正確に住民登録数を言いますと、126万6,500人というのが8月1日現在の数字でございます。これはちょっと我々福岡にいる人間もあれよあれよというぐらいな勢いで伸びてきよるわけですな。ここから今で言う、恐ろしいはどの大資本と商業主義の風がこの地域に吹き込んでくるんじゃなかろうかと。これを私非常に心配しているわけです。この天瀬の温泉地域の皆様方もこの旅館街の皆さん方一生懸命頑張っていらっしゃるんだけれども、つまり日本は法的な規制というものがアメリカの圧力で徐々になくなってきよるわけなんで、これから今さっきお話になった後藤さんあたりにぜひとも頑張って、アメリカの圧力をはねかえしてもらわないといかんとこういうふうに思っておるわけですが、大型店はもうパーというふうな状況になってまいりますと、何が出てくるかいうと突如として巨大な大資本のホテルがどんと、高塚さんの近くの民有地を買収してつくると。

 それからまた、今ふるさとの創生資金1億円で皆が温泉を掘ったけど、そこは1億円どころじゃない、何億円もかけて井戸を掘りますとこれはやはり温泉は出てくるでしょう、多分。その大型のリゾートホテルが出てくると、そこの中に全部埋まっちゃうんですね。

別府の杉の井ホテルごらんになったら一発でおわかりのように、あそこは劇場がある、バーがある、和風の飲み屋さんがある、土産品店は天瀬じゅうのお土産品店があわさったより広いくらいあるわけですね。あそこで全部終わっちゃうんですね。地域には何の恩典も及ぼさないというふうな問題がこれからやっぱり起こってくるという危険性を感じるわけです。きょう、会場で日田の市民会館からこちらに参る途中で一番立派だった看板は何だったか、お気づきになりました?立派な木の杉の質みたいな看板ですね。何て書いてあったかというと、「温泉と別荘のゆうゆう村」というんですかね。つまり福岡の市内で、もう何年も前からこの温泉つき別狂というのは天瀬の別送地の分譲のチラシが、がぼがぼ出とるわけですね。どんどん入っとるわけですよ。ところが、−1昨年の例の風害がありましたときにはさすがになりを潜めておったんだけれども、さて、とかくこちらの方の仕事をやらせていただいておりまして、一昨年報告書ができました。これ、町長さんからおほめいただいて大変恐縮でございましたが、「心安らぐ露天風呂、心豊かな高塚さん、花の里」というこの3大天瀬の資源を何としてでもこれを生かしていこうというふうなことで、バラの花の色によって色の違う露天風呂にしちゃどうかなどいろんな工夫をしております。この露天風呂もこの村おこし事業の一番厳しいところは言うはやすく、行うはかた しという平松知事のお言葉どおりなんでございまして、この露天風呂は例えばよそから来た東京の子が風呂に入って上がりざまにビール瓶をじゃあんと割ってそして上がっていくんですね。そしたら後の人は危なくて入れないというふうな問題がある。あるいはこの風呂はどこが管理しているか。町が補助金を出して自治会が管理していると。そうすると自治会の方はたまらんからもう10時ごろになるともう水を抜いちゃうというふうな問題が出てくるとか。難しい問題もありますけど、何とかこれ生かしたいと。

 それから、高塚地蔵尊というのは、よそからお見えになった方はぜひひとつお参りいただきたいと思います。小さいですよ。こんな小さなお地蔵さんがねというのが、年間に250万人とか集めるんです。しかも、これ仕掛けた方がどなたかよく存じませんけども、うまいんですな。1年に一つしか願かけられんということです。しかもこれ抱えて軽く感じたら願い事がかなうという、重かったらだめという。ひとつ皆さんお帰りに抱えていってください。我が村は大丈夫か。我が町は大丈夫か、抱えていただきたいと思いますが、実はそこと天瀬温泉を結ぶルートがない。道路がない。これには今町長さん一生懸命になって道路をやってらっしゃいますし、高塚さんのすぐ後ろに高速自動車道のインターができるわけです。お地蔵さんの恐らくお参り客ほ倍増すると私はにらんでおります。これを私ども、こっちに引き込もう。そのために都市の人を呼べるようなセンスでこっちの方を何とかしていきたいと、これがポイントです。

 それからもう一つ、これからますます花は絶対要るという時代になってまいりますんで、ここのところに一つのポイントがあるわけです。この3つの資源を何とか生かしたいということで、一つだけ例を申させていただきます。

 実は今言われたように、我々が気づかないところに意外な資源というのが眠っているんじゃないかと。これを掘り起こすというのは大変なことでございます。例えば筑後川、あるいは全国至るところに菜の花が咲きます。この菜の花食べられる花と食べられないのとあるわけでございますが、筑後川沿いのある商工会の席で、この菜の花を生かした食品を開発できないかと。その発端は福岡市の消防局長であった方がその菜の花を求めてずっと鹿児島から九州全県を北上していくんですね。そして、いくたるもいくたるも菜の花漬をつくると職員たちがみんな待ってるわけですね。それをやろうといったら、地元の人は菜の花だってそういうものは全く珍らしくないと。そげんとは何にもなりませんということで一笑に付されたときに、何にも言わんで黙って聞いてた若いお菓子やさんがそれを実行された。菜の花がそのまま入っているゼリーをつくったんですね。これを全国の商工会議所の物産展に出品したら、商工会連合会の会長賞をもらいまして三越が飛びついたというものです。ところが、これまたなかなか難しい問題がありまして、なぜか。量産が追いつかないんですね。それと包装にもう一つ工夫が要った。こういうふうな問題がありまして、そこんところは今でも福岡県の物産市で商品に出してくれと言ったら、いやもう手持ちがありませんと。常に売り切れということもあります。もっと我々の身近にいいものがありはしないんでしょうか。それをゆっくりぜひ皆様方足元を見直していただきたいというふうに思います。

 

○佐藤誠治

 

 はい、どうもありがとうございました。

 では、続いて萩原さんお願いします。

 

○萩原了一

 

 村おこしとなりはしませんが、ささやかな行動といいますか、運動といいますか、非常にいろあせているのですが、私の基本的な考え方はこうです。いかなる場合でも、やはりここに人は住み続ける、自分たちは住み続けていくんだという決意を、自信を持つこと、それが結局村づくりの基本になると思います。

 私の住んでおる地域は天瀬駅と豊後森駅の間に小さなJR杉河内駅があります。あるいは西日本の方は慈恩の滝を御存じかもしれません。そこから原流まで約12キロほどの山浦川という川があります。そこで起きました一つの小さな運動についてちょっと御紹介を申し上げたいと思います。

 この地域は純然たる農村でございます。総戸数は玖珠町が約400戸、天瀬町が約100戸、合わせて500戸足らずの地域でございます。申しおくれましたが山浦川は玖珠町と天瀬町の境界になっております。行政区を別にした地域でございます。今まで行政区が違うということはそこに住む住民にとっては非常な管理的マイナスが多かったんです。これではいかんなということで、川の流れをまとめた運動をやるということになったわけでございます。

 これがちょうど昭和40年代の終わりから50年の初めでございます。当時、この地域はソフトボールが非常に流行しまして、子供から大人まで一緒にやったんです。あまり盛んになって小学校の運動場を使っておりましたが、ガラスは割るは周りの田んぼにボールは飛び出す。なかなか費用もままならないというところで、じゃせっかく広い台地があるからそこにグラウンドをつくろうと。そういうことで地域に3カ所のグラウンドができた。ブルを入れて原野をおしまくりました。最初のグラウンドは15万円。ところが狭い。これじゃ十分な練習もできない、試合もできない。そこでグラウンドを拡張しようということで、とにかく地元で自分たちでつくろうということで、その地域内で寄附を募ったわけです。それで、結局昭和50年代の初めに200万円の金が集まった。それで、200万円だけを使った。大きなそのあれであの原野を押しまくりまして、ようやく約100メートルのグラウンドができると、これを何とか利用しようと、山浦川総地域をあげてお盆の15日に流域川のソフトボール大会を決めた。今度盛大になり、どうにもならんということで、はかの地域のグラウンドも拡張して3グラウンドの予選をやって決勝を杉河内のグラウンドで。

やって、これがもう盆の行事になりました。夏のスポーツはできたけれども、冬も何か欲しいなということで、じゃあ駅伝をやろうということになりまして、これが7年ほど前始めたわけでございますが、その最初にただ走るだけではおもしろくない。意味はない。

じゃあ、道路の清掃をやろうと。道路の周辺の清掃と空き缶集め、前日までに地域の者は総動員でやる。ある地域では草を刈ってほうきで道路をきれいに掃き清めまして、そこを気持ちよく走る。それがもうだんだん盛会になりまして、最盛期には約20チーム、200人がやるんです。今では小学校、中学校は全員。教職員も全員。地域の人も全員。すべて参加してこれをやっておるわけです。夏と冬はできたけども、春が物足りない。じゃバレーボールをやろう。4月、5月にバレーボール大会をします。せっかく体育館ができたから、じゃ駅伝は午前中に終わるから午後は綱引きをやろう。だんだんだんだん盛会になりまして、そうするうちに、それに参加し、運営する人たちがだんだんだんだんふえてきまして、そして自信を持ってきたんですね。最近は駅伝の集計はパソコンをつかいます。そういう運動が続いたわけでございます。

 そのスポーツクラブが発展しまして、山浦親睦会というのができました。そうして、スポーツだけではどうかなと、お祭りさわぎでちょっと気が引けるということで、じゃ道路の清掃をやったから、今度ほ川の清掃をやりましょうということになった。滝には非常にごみが落ちている。ビニールや木ぎれなど。滝つぼのそうじということで、ユニックを借りてきまして、大きい物はユニックで、小さい物は水の中に入って、それがまた発展しまして今度は、山浦川の全域をそうじをしよう。夏は河川敷の草を、粗大ごみをしよう、だんだんそういうふうに発展してきたわけです。山浦川親睦会の正会員が100人ほどでございますが、40代から以下の社会人は大体百四、五十名はおるわけです。しかし、実際活動するのは100人、そのあとの50人はふくまれていない。ですからこれはおもしろい話があまり出てこないから、ひとつ集落の対抗ボーリング大会をやろうと。そこでボーリソグ大会やるから、若い者おったら連れて出てこいと言ったら、日ごろの倍以上若い人がどっと来た。「これだ」とやはり地域内の活動だけではどうにもならんなとそういうところにいきついたところでございます。

 それから、気になる方もあるかと思いますが、事業をすれば資金が要る。この資金につきましては、行政の援助は受けないと。自分たちでやるんだと。これを基本方針にしておるわけでございます。正会員は会費を払いなさい。そして、自治会の声も聞いて、個人の寄附。いよいよ足りなくなった場合には、役員が負担する。それぐらいの覚悟でやっているわけです。一時期助成が幾らかあったときもありましたけれども、もうそんなものほ要らないと。自分たちでやるという気概でやっておるわけでございます。

 ただ他地域から駅伝に参加させてくれないかという申し込みもてんてんあるようでございますが、やはりここの駅伝は性格が違うからと、ただ競うだけじゃないんだからということで、今のところは断っておるところでございます。

 以上述べてきましたが、特殊な地域というわけではございませんが、全国どこにもあると思いますが、川を挟んで行政区の違う集落が一緒に事をやるということにも大きな意味がありまして、これがもっと大きく発展していったらいいなと期待をしているわけでございます。とりとめもないことを言いましたが、小さな地域のささやかな試みといいますか、それを御紹介いたしまして、また皆さん方の参考になるところがあればしていただきたいと。また、細かいところにつきまして御質問がございましたら、後ほどお伺いしたいと思います。

 

 以上でございます。

 

○佐藤誠治

 

 ありがとうございました。

 じゃ、最後に佐藤さんお願いします。

 

○佐藤るり

 

 よろしくお願いいたします。

 皆さん遠くからわざわざ来ていただきまして大変お疲れになってらっしゃるんじゃないかと思います。私は、どういう因縁か主人と京都で知り合いまして福井県からこちらに嫁がせていただきました。この会場にも福井の方がいらっしゃるようで、大変なつかしい思いで、お顛がどなたか探させていただいております。福井の方からこちらの方へ嫁がせていただいたのも、ここがどんなところか全く知らないで嫁いで釆てしまったから、嫁いできてしまったんだと言えるかもしれません。今もそうなんですけど、お手洗いはもちろんおつりが来るお手洗いですし、台所は土間だったんですね。もう暗くて汚くって、主婦にとっては水まわりが汚いというのは致命傷なんですけれども、それでも嫁いでしまったんだからしょうがないやということで、借金をして頑張って台所を改装したりして今日にいたっております。おまけに、いわゆる文化的なものがほとんどと言っていいくらいないんですね。図書館とか、あるいは美術館とか、そういうものがないということで、それはなくてもいいんですけど、そういうことを話し合える友達がいないのが最初はすごく寂しいことでした。

 そんなこんなで、何かしなくっちゃ自分の立ってる場がないなということで、本堂があるからコンサートでもしてみようかということで、自分自身が福岡までコンサートを聞きに行けないから、じゃ呼べばいいやという発想でコンサートを始めさせていただいたわけです。おかげさまで、ことし夏にジャズのコンサートをやらさせていただいたので6回目になりまして、宣伝もほとんどしませんから毎回少ないんですけれども、それでも日田とか、遠いときには長崎の方からでも来てくださるようになりました。おかげさまで、そのコンサートをさせていただいてることが御縁となりまして、ゆうゆう天瀬という後継者対策委員会というものにも入れていただいたりして、私自身がどんどん天瀬が楽しく好きな町になってきております。

 ところが、ついせんだって知り合いの若い女の人と話してたらこんなことをおっしゃったんですね。寝たきりのお年寄りを抱えている上に自分は寝たきりのお年寄りの介抱も手伝いながら、あるところに勤務しているんだけれども、そこでもらった月給は全部おじいちゃんが没収してしまうそうなんです。自分にくれるのはガソリン代だけ。だから、自分は髪の毛も切りに行くこともできなければ、美容院に行くこともできない。髪の毛実際長くていらっしゃって、ここら辺だけ自分で切ったようなあとがあるんですね。「信じられる!まだこんなにも封建時代の名残みたいなうちがのこってるんよ」と言われて、私は比較するというのは余りよくないんですけど、本当にうちの母は私が絵で得た収入なんかも何にも言わないし、何て恵まれているんだろうなって考えさせられたことでした。その方みたいにお年寄りを抱えている、そして自分は勤めに行けと言われるから勤めに行ってて、幼い子どもを保育園に預けているんですね。ほとんど子どもはほったらかしだそうです。自分のしたいことも何にもできない。女にとって最大の関心事は福祉と教育だと思うんですけれども、かける言葉もなくって、せめてもし遊びに来る時間があったら遊びにきてくださいというふうにしか言えなかったんです。

 それで、まず福祉というのを考えてみたんですけれども、日本ではホームなんかに預けているというと、それだけで非難が出ることがあるんですね。ホームに預けるなんて、何てひどい子供たちなんだ。親に対して冷たいじゃないか。特に親戚がそんなことをしたら世間体が悪いんじゃないかということで、せっかく行政の方がいいホームをつくっても、そこからお年寄りを返してしまうことがあるそうです。何かこう日本人というのは世間体、あるいは会社の中でも自分の地位とかそういうのばっかり考えていて、さっき後藤先生のお話にもありましたけれども、東京がいい、東大がいい、あるいほお金持ちがいい、美人がいい。そればっかりでもっと大きなものと自分との1対1の対話というのがないんじゃないかなと思うんです。こんなことを言うには私はたまたまご縁があって大学にも行かせてもらったし、お寺だから広い家に住んでるからそんなことが言えるんじゃないのと言えるかもしれないです。確かに、もし何もなかったら、それで差別をされたらすごくつらいだろうな、悔しいだろうな。私の差別と感じたのはたまたま女だからということとかありますけれども、それでもそこを何とかして乗り越えていかなければ道は開けていかないんじゃないか。今、日本が不況とか、あるいはいろんな天災で考え直すべきときに来てると思うんです。これ、すごく暗いこともありますけれど、いい意味で日本人全体がもう一度首をかしげて自分の心の中を問い直す時期に来てるんじゃないかな。これはきっと自然が与えてくれた恵みなんじゃないかとも思うんです。

 私自身考えてみたところ、大学で学んだことというのはほとんどないんですね。それよりも卒業してからたまたまお話の中で出会ったいいことが投げかけられた、そんな気がいたします。例えば川村俊子さんという方のお話の中に「何をも欲しがらんで、あるものを喜ばしてもらおうよのう」という言葉がありまして、それもはっとさせられた言葉です。

それとか、高史明先生とおっしゃって、朝鮮の方でもう子供のころから随分差別に遭われて、今は作家になってらっしゃる方なんですけれども、その方の講演の中で「人に迷惑をかけるなとして自分の子供を育ててきた。そうして自分の子供は迷惑をかけずには生きられないことに気がついて自殺してしまった。本当は自分は子供にこう言うべきであったのだ。みんなに迷惑をかけて、みんなに我慢して生かさせていただいてるんだ。それに対して感謝しようね。そういうふうに子供を教育するべきだったんだということが先生のお話の中にありました。あるいは、近所のおばあちゃんが自分の命というのは、私はたまたまお寺ですから仏教というのを聞かせていただかないと見えてこない。そういういろんな人の話を聞かせていただくうちに、どんどん私自身の価値観が転換してきたんですね。今までは、やはり私も東京が一番いいところ、あるいは東大とか京大がいいところ、きれいなモデルさんがいいというふうな人間でしたけれども、今はそんなんじゃない、もっと違う世界があるんだということに少しずつ気づかさせていただいていて、天瀬に住んでいることもちっともいやじゃない、誇りに思っています。

 こういう人間の価値観を転換させるような心のお話をしてくれる、そういう教育を何とかして地元の人たちにも、そして天瀬以外の人たちにも一緒に分け合えることができないかなと思いまして、ことしの夏に近所の若いお母さんたちと一緒に稲城選恵先生とおっしゃるお坊さんをお呼びして研究会を開かせていただきました。私たちがちょっと取り組みが遅かったものですから、宣伝が行き届かずに集まった人数が少なかったんですけれども、それでも北九州からあるいほ長崎から約12名の方が参加してくださって、あと大分県内の方が半分ぐらい。夜の部の講演もさせていただいたんですけれども、それには県外の方プラス地元の若いお母さんたちが70人ぐらい集まってくれて、盛況でした。それで、気がついたんですけど、すばらしい精神の持ち主、才能、頭脳の持ち主を町が誘致するというか保有していれば、何里の道を越えてでも来る人は来るんですね。長崎から来られた方たちは帰り、ちょうど台風となったので、鉄道がとまったりして帰るのに6時間か7時間かかったそうなんです。それでもお礼の電話をくださって、来年もぜひ行きますからお知らせくださいということでした。

 ということは、教育と福祉を売り物にするというと聞こえが悪いんですけれども、教育と福祉で打って出ることができるんじゃないかなと思うんです。例えば何十億円かの予算があったら、5億円でノーベル賞作家の先生を一人天瀬に頼んで住んでもらう。そうしたら、その先生について勉強したいという人が世界じゅうから集まってくると思うんです。

もう国内、九州内を考えてる時代じゃないと思うんです。それぐらいの先生を誘致したら世界からだって勉強しに来る人がいると思うんです。別にそういう作家とか数学者じゃなくっても音楽家なんかでもいいと思います。一流の人に天瀬に住んでいただいたら、設備も最初は要らないと思うんです。そういうことをするんだったら、うちの本堂なんか幾らでも提供しますから、そういう方に来ていただいて世界じゅうに呼びかけたらその人について勉強したいという人が来ると思うんですね。

 私自身、南先生とさっきお話しした先生のところに京都の学生時代に片道2時間かけて勉強に行ってました。全然苦にならなかったんです。すごく心にとっていいお話をしてくださったので、夜だったんですけどきついのもこらえて行かせていただいていました。

 それで、福祉というのも今は寝たきりになってしまったらどうしようか、あるいはぼけてしまったらどうしようかとその観点からの福祉で、確かに私自身今のうちだったらトイレも不便だ、お風呂も不便だという心配もあるし、自分も実家とこちらとに年寄り4人抱えることになるわけですからすごく心配なんですけど、まずその前に予防医学ということを考えてほしいと思うんです。寝たきりにならない、ぼけにならないのには、どんな日ごろの養生が大切なのか。私自身アトビーだったんです。玄米菜食がいいということで勧めてくださった方がいらっしゃって、それが本当に天瀬にとってはお買得商品のようなものがあったんですけど、ほとんどきれいになりつつあります。アメリカのポストン郊外に久司(道史)先生という先生がいらっしゃって、そういう食養生でがんやェイズの患者さんをきれいに直していらっしゃるんですね。その先生のもとには、それこそ全世界からいろんな方が集まってらっしゃいます。

 天瀬には温泉もあってきれいな水も空気もあります。そしたら、そういう予防医学も最先端地にすることができるんではないかなと思うんです。新鮮な野菜と玄米と温泉療法とで予防医学を売り物のにしたら、それもまた世界じゅうからいろんな方が集まってくるんじゃないかなと思います。

 ただきれいな景色とか温泉があるだけでは日本じゅうに幾らも行けるところはあると思いますので、私のこういう願いというのはなかなか入れてもらえないと思いますけれども、入れてもらえなかったら主人と私と一緒にやってそういう心の大学みたいなものをつくりたいねと言っていますので、そのときは皆様もぜひ、もしできたら見にいらっしゃってください。

 何か変な話をべらべらしゃべりまして、失礼しました。

 

○佐藤誠治

 

 どうもありがとうございました。

 地域づくりというのは、非常に幅広いなということを実感させられました。やはり地域というのはそれだけ多用性を持っておりまして、産業から環境、それから地域との生活、観光、福祉、教育と非常に幅広い観点から4人の皆さん方のパネラーの方にお話いただいたわけでございます。

 まず、後藤さん、先はど私は今回のこのテーマというのは農村に舞台をつくってそこでポスト農村の交流ということを考える、そういうことじゃないかなと申し上げたんですけど、むしろ後藤さんは都市に打って出ると。それがそういう観点が大事なんだというふうにおっしゃったんですね。そういう観点から、例えば天瀬にある資源、こういうものを何か生かしてそして都市の方に打って出ると。それはただ単に物理的に打って出るということよりもよその情報を発進するとかそういう意味もあろうかと思いますけれども、ちょっと話を具体的に持っていって天瀬はどういうふうに外に向かって発信するか。あるいは、具体的に木の花ガルテンじゃないですけども、大山町みたいに直に打って出るというような方法はあるのかどうか。その辺を少し御指摘をお願いしたいと思いますが。

 

○後藤完一

 

 恐らく天瀬町の農協の方も木の花ガルテンに若干は出荷されているんだと思っております。なぜ私そう言うかといいますと、実は小石原町、小さな町ですが、この人たちは恐らくここの村から出たことのない人は大変多いだろうということで、福岡のスポーツセンターを2年間、2日間ただで借り切ってイベントを打ったんです。そうして村の手のあいてる人たちは全部バスツアーで福岡市内見学をして、スポーツセンターで物産展をやりました。大変な盛況でございました。そのとき、ある人が非常に象徽的なことを言った思い出がございます。「私は福岡に行くとき大変怖かった、臆病だった、しかしあれだけお客さんが来てくれて、小石原のいろんなものを買っていろんな人とそばで接して帰ってきた。

小石原に帰るときに、私は桃太郎になった気持ちだ」と言ったんですね。どうもそこらが必要なんだということなんです。ですから、この町だってこれだけ立派な花の生産をされている。いろんな農産物があって、いろんなものを持って行って、そして福岡や北九州や場合によっては大阪でもいい。鹿児島でも熊本でもどこでもいいんだと思うんです。そういう拠点をつくっていくということ。そして、天瀬の花というものが一つのブランド力を持っているということ。それがひいては天瀬観光に役立っていくんだということなんです。そういう資源は限りなくあるということなんです。要するに、この花が福岡の人にメッセージとなってこれがただ売られている。そして、それが天瀬という観光地を多くの人に知らせていくということになるんだということなんです。ですから、その手法は極めてそう難しいことではない。そのときにこの花を通して農村と都会とコミュニケーションを図ることができて、それを繰り返しやるという以外にないんだということでございます。

 それをやってる北海道池田町が東京界隈に市場を持っておりますし、そうするとこの町で農業をやりながら多くの若い人たちは出荷先へ持って行く。そして、そこからメッセージが来る。そしてまたそこで働くという。それじゃ、そんな観光地だったら天瀬温泉に行ってみようといって私はそこへ行く。そのときに初めて双方共生という問題が出てくるわけでありまして、むしろ都会というのはいろんな遊ぶ場所、いろんなチャンスはあります。ですから、我々がこの際出ていくという、社会はむしろ都会の人の方が消極的。となれば、都会へ自分たちが打って出て、そして情報を発信してそこから都会の人を天瀬に呼び込むという方法、そういう手法が幾らでもあるんだという感じがいたします。

 よろしゅうございましょうか。

 

○佐藤誠治

 

 どうもありがとうございました。

 

 それから、またこれは後藤さんの提議された問題ではあるんですけれども、地域の資源をよく御存じの片江さんの方にお伺いしたいんですが、先ほど社会的根拠を持った地域づくりということで、後藤さんの方からお話がありましたが、片江さんもそういうふうに非常に感動されたというか、そういうふうに思いますけれども、実は先ほど町長のごあいさつの中に花と安らぎの五馬媛の里ということで、これは県がやっております過疎地域定住促進プロジェクト推進事業ということで、かなり総合的な花をメーンにした地域づくりということを考えておられるんですね。これについていわゆる都会的なセンスにブラッシュアップといいますか、磨き上げて事業を完成させるようなそういう手法というのがもしお考えでしたら、何か御意見をいただきたいと思います。

 

○片江欣夫

 

 よそからお見えの方には大変参考になると思うんでありますが、一つは天瀬町の商工会が初めてやった村おこし事業で、町民の方の意識おこしというものの大変なプラスになったと思うんでおりますが、一つ提案したのがこれだけの旅館街がありますので、材料は天瀬にあるものは何を使ってもいいから天瀬物

語という料理をつくってはいかがですかと。

それにバラの花を添えて出す。これはぜったいにいいですよというふうに申し上げたら、もう早速すぐ次の会合で出てきたんですね。大変好評でございましたんで、これなら勧められると。今、そのバラを栽培してらっしゃる方が非常に熱心で、それから行政当局も積極的になられて、実はバラの古くなったものを5,000本ずつぐらい毎年捨てておった。これを何とか生かして天瀬町に入った瞬間にもうバラのにおいがするようなまちづくりの方法がないかということでバラ園の経営者が一生懸命考えてらっしゃるのと、それからあちらの族館組合のこともお話し合われて、旅館に泊まった方にバラの花を持って帰ってもらおうかというふうなこともしているわけでございます。そういうふうなことを今考えております。

 また、ちょっと別のことかもしれませんが、佐藤さんからもちらっとお話が出ました問題。過疎化とともに高齢化社会が急速に進んできますという問題で、実は地域が崩壊してるわけです。だから村おこし、地域おこしという問題が出てくるし、福祉も地域福祉という問題になってきている。つまりは今の日本の状況でいけば、全部役所におんぶにだっこの福祉になってきているということでその地域福祉という問題が出てきた。そこで、今基本的に何かというと、地域おこしは人づくりでもあると。いわゆるなぜ人づくりを今やらなきゃならないかというと、我々やってこなかったからです。なぜかというと、非常に私は立派なことを言うようで申しわけないんですが、子供をぶん殴らなくなっちゃったんですな。だんだん熱が入ってくるとつい博多弁で申しわけないんですが、博多弁で子供を殴ることをくらすと言うんです。その子供をくらさんわけですな。くらさんから、その子供が大きくなって親と一緒に暮らさんというんです。だから、くらすと暮らすちゅうんですよ。家族が崩壊したら、今もう農業はこんな苦しい仕事はおれで終わりだと。子供はみんな都会へサラリーマン。これで家族が崩壊しよるのに地域どころじゃなくなってるわけですよ。だから、私は非常に極論ですが、地域おこしも福祉の問題もやっぱり子供をこんなところから始めんとどうしようもならんばいと。極論でございますが、思っております。今私たちはこの子供をしっかりしつけていくと。そしてどんなまちおこし事業をやっても子供たちが絶対ここに住むんだと思わなければ、これもう崩壊しちゃうんじゃないかなと。これを私一番基本的な問題として切実に今感じているところでございます。

 

○佐藤誠治

 

 どうもありがとうございました。

 農村に住むということは、非常に都市に比べていわゆる日常的な環境、利便性とかそういうことからいうと非常にハンディーがあるわけですね。そういう中で永住するという意思をきちっと固めていくというのは大変なことだろうと思うんですよね。

 萩原さん、いかがですか。農村の環境づくりというか、もちろん新しさも確保されておかなければいけないと。そういうことからいうと、必ずしも自分が住むところで働くというそういう今までの農村の環境というか、生産と生活が一体となったようなそういう農村の姿というものをずっと求めていくのもまた難しいかなという感じもするんですね。それぞれ農村の環境づくり、あるいはその道路だとかそういう基盤整備について何かお考えがありましたらお願いしたいんですが。

 

○萩原了一

 

 そうですね。 今さっき出てきました山浦川流域は専業がごく限られております。ほとんどの青壮年は日田玖珠に働きに出ております。私ほそれでも、その姿でもいいと思っていて、そこに住み続けて田畑を荒さない。まずそれがあって、そしてその中で生活の満足感、あるいは外の空気で生活する。それが地域だと思っております。もう一方では住環境が非常に悪いということも否めない事実です。今の川は上流ほど汚れています。というのは家庭排水が全部川へそのまま流れて、中流、下流域はむしろきれいなんです。水源から何キロの範囲にすむ魚はもう全部死んでいます。これは家庭排水だけじゃございません。

上流の方に大根の生産地があり、農薬混じりの土砂が流れてくるという事情もあります。

そのため、農村もやっぱり合併槽をつくってきれいな排水を出すと。これにはやっぱり自治体がそれ相当の覚悟をして、そこに人が住んでほしかったらやっぱりそれぐらいのことは思い切ってやってほしい。

 

○佐藤誠治

 

 どうもありがとうございました。

 最後に私の方で若干のまとめをさせていただきます。

 きょうのこのセッションのテーマというのが都市と農村の共生ということであったんですけれども、この共生というのがどうも我々考えてみますに農村側から常に求めてやまない、そういうテーマのように思うんですね。したがって、私が先はど申しましたような意味で、農村における農村を舞台とした都市との共生なり交流ということを私は提起したわ

けですけども、むしろ産業だとかあるいは人の問題ということになりますと、むしろ都市に打って出るというか、そういうものがやはり必要なんじゃないかなと、そういうことにまず1点まとめられるかなという感じがいたします。

 しかしながら、農村における舞台づくりといいますか、都市との交流を具体的にするというのもこれもやはりどうしても避けて通れない、むしろ行政がやらなければならないことについてはこの辺がポイントになっていくんではないかなというふうな感じを持っております。過疎というのは、いかに地域で頑張ったとしても克服するのは難しいんじゃないか。人口が減少していくということに歯どめをかけるということは相当難しいんじゃないかなというふうに思っております。したがって、じゃどうやって人口を確保したらいいのか。これは原子力ことばでリンカイという言葉があるんですけれども、抗生物質をある程度の質量を確保しないとどうしても核分裂が起こらないという概念ですね。要するに、やっぱり絶対的に人口が少ないと、これはどうしようもない。ある程度の人口の規模はどうしても必要であるということなんです。そのときにやはり一つは、都市の人たちと交流することによって人口基盤を確保する。定住ではないですけど、これは交流人口というような言い方ができるかもしれません。それからもう一つは、都市ということではなくて地域と地域の間の交流、横と横との交流、これが今からキーワードになっていくんじゃないかなというふうに思ってます。

 実はきょうは知事の話の中にハブというのがありまして、要するに例えば天瀬町と小国町ですね。それから都市と、そういう横のつながり、これを大事にして地域振興というものを確保していくと。

 先ほど片江さんの方から高塚と中心部を結ぶような道路の重要性というものを指摘されたわけですけれども、私はさらにそれを広げて大分とか、あるいは玖珠だとか、そういう横並びの地域、これを結びつけることによって過疎時代に確保できない人口を動的に確保するということが必要なんじゃないかなというふうに思います。

 それから、第3点目は先ほどから言っておりますように、五馬媛の里、こういうものを私はやはり今から農村地域にはどんどんつくっていく必要があるんじゃないかなと。花と安らぎの五馬媛の里と、花の館、花の資料館、レストハウス、手づくり農業センター、こういうものを総合的に整備することによって地域が都市に向かって情報を発信していくと、そういうことができるんじゃないかなというふうに思います。先ほど佐藤さんの話の中に、地域の人をレベルアップすると人は必ず来るんだというふうな話がございましたけれども、私もやはりそういう部分が非常に大事じゃないかなと。パーソナリティがどんどん深まっていくことによってそこが地域的に魅力を増していくということがあるんじゃないかなというふうに思います。また、定住をやっていくためにはどうしても地域の農村の生活環境が文化的、衛生的に、あるいは福祉的にも整備されておらなければいけないということですね。実は私も農村の出なんですけれども、実家に帰りますといろいろ不便なことがあるし、それから1日あるいは2日と家に滞在しますと、どうも森閑として寂しくてしょうがないという、人肌恋しいというこういう感情にとらわれていくわけですね。したがって、やはり先ほど言ったように基点を整備する中でやはり人と人との地域の人と人との交流ですね、こういう場面をやはりつくる、そういうことが必要なんじゃないかなと思っています。ここから車で1時間ほどのとこですが、山国町と、湯布院、それから南の方の鶴見町と、この3つの町がアメニティータウン構想ということでモデル的な計画をつくったわけですね。私は農村に保守的な雰囲気のあるそういう複合的な施設をつくるべきだと。そうすることによって、実は都市へ都市へと向かってた若者たちの目を若干でも地域へとどめさせることができるんじゃないかと。そしてまた、複合的な施設ですので、例えば役場に行った人が農協に行った人とクロスするとか、そういう場面も生まれてくるわけですね。したがって、地域の人口は減少しているんだけれども人と人との触れ合いの習慣というのは延長できるんだろうと、そういうふうなことを私は提案したんですが、それで山国町がそういう事業を振興してるわけでございます。ですから、やはり定住する前にそういう環境整備を十分やっていく必要があるんじゃないかということであります。

 4点目、これで最後になりますけれども、やはりきょうのテーマというのは資源をいかに活用するかということなんですね。これは片江さんの話の中にもありましたけれども、3つのポイント、温泉と高塚地蔵、それと花ですね。この3つがやはりうまく結びつけて都市に向かって情報発信していく、そういうことが大事だと。その中で都会的なセンスが磨かれる。田舎の資源をそのままの状態形で都市に出してもこれはなかなか受け入れてもらえないだろうと。やっぱりブラッシュアップと、磨かれる部分も重要だと思うんです。

 こういう4つのポイソトを持って、一村一風といいますか、そういう一風変わったそういう地域づくりを天瀬でやることによって地域がいよいよ活性化の段階に入っていくんじゃないかなというふうに私は考えております。

 つたない司会で、しかも時間が若干超過いたしましたけれども、私のまとめにさせたいただきました。どうもお疲れさまでした。

 

○司会

 

 どうも先生方ありがとうございました。

 交流会の席上でパネラーの先生方も同席しますので、そのときにまたお話をされていただきたいと思います。

 それでは、先生方には大変貴重なお話をしていただきましてありがとうございました。

なお、西日本地区、それから遠くは千葉県、福井県、全国各地から天瀬町においでいただきまして本当にありがとうございます。また、町内の議員さん、それから地域づくり団体の皆様方、大変忙しい中長時間御列席いただきまして大変ありがとうございました。これで、第5分科会を終了いたしたいと思います。どうもありがとうございました。