この記事は東九州軸推進機構、建設省九州地方建設局の主催による地域づくりシンポジウム−連携・交流−,(1996年2月,於:大分県別府市,ビーコンプラザ) における基調講演の記録である。
 
地域づくりと地域連携軸の課題
 
(C) Seiji SATO
1.はじめに
  ただいまご紹介に与りました大分大学の佐藤でございます。私は工学部の建設工学科に所属しておりまして、もともと建築が専門ですが、今は地域づくり、あるいは地域開発という観点での仕事もさせていただいています。今日は東九州軸推進機構のイベントの基調講演を仰せつかったわけでございますけれども、実はこの後にパネルディスカッションが控えておりまして、その前座として務めさせていただきます。
 東九州軸はまだ途についたばかりでございますけれども、ここでいきなり東九州軸ではなく、地域連携あるいは地域づくりについて少し概念的な話をすることにして、東九州軸、あるいは東九州の中で行なわれているいろんな町づくりの事例を含めて、具体論は次のパネルディスカッションで展開したいと思っております。大学に身を置く者ですから原論的な所から出発する癖がついておりまして少し堅い話になるかも知れません。
 今なぜ、地域づくり、地域連携づくりなのでしょうか。私は47歳でございますけれども、地域づくりの歴史と言ったら大袈裟ですが、そのきっかけになったのは何かと思い起こしてみますと、昭和40年代の後半から昭和50年代の前半にかけての、「地域の時代」だとか、あるいは「地方の時代」だとか、あるいは「地域主義」という言葉で、主として日本地域開発センターが一連のキャンペーンを張ったのが始めだと記憶しております。『地域開発』という雑誌がございますが、その中で一番最初に出てきたのは、南の島、あるいは沖縄だったかと思いますが、そこで「島おこし」をテーマにしたシンポジウムが行なわれたことだったように覚えています。それ以後、「町おこし」あるいは「地域おこし」と日本全国にこの運動が広まって行きました。そういう中で非常に町づくりが過熱した時代がありました。悪乗りからお菓子のおこしを作って、自分の村で作ったから「村おこし」だなんてところまで行ったというふうなこともあったわけでございます。

2.東京一極集中と地方の時代
 こういう地域づくりの背景を考えますと、その一つは人口が東京に一極集中することに端的に表れていますように、大都市に、人だとか物や情報が集まって行く。あるいは東京に全て集まって、それから地方に再発送されて行く構造があったわけでございます。それに対する一定の反省から、地方が力をつけることがいかに重要かということが認識されていきました。当時はそういう言い方はしませんでしたけれども、「地方からの発信」がいかに大事かと認識された時代背景があったのではないでしょうか。
 国で作っております全国総合開発計画というのがあります。今、第4次の総合計画の見直しが行なわれ、次に第5次の総合開発計画、いろいろ聞くと第5次と言わないんじゃないかとも言われてますが、いずれにしても5つ日の全国総合開発計画が作られようとしてる現状であります。この全国総合開発計画の今までの流れを見るとそれが非常によくわかります。
 一次の全国総合開発計画は、当時は一次と言わずに「全総」と言っていましたが、昭和37年に拠点開発を主要なテーマに掲げていました。大分の新産都などはこれを契機に実施されてくることになるのです。昭和44年の第二次、これは「新全総」と言われましたが、拠点開発した所を交通ネットワークによって結びつけて行くのが主要なテーマでした。
昭和52年に作られた第三次全総は定住圏がテーマです。三全総の1年ぐらい前に、人口が大都市に大きく流れていた構造が地方に回帰する時期がありました。地方圏から大都市圏に流れていた人口が若干ストップして、逆に地方圏に戻ってくる、おそらく昭和49年のオイルショックを原因とした経済の停滞から起こったことだと思います。それから第四次の全総は現在実行中ですが、これは多極分散型国土形成がテーマで昭和62年に作られました。
 拠点開発して、ネットワークを作った。それでも地方が中央と対峠する構造しか作られませんでした。しかも中央に吸い上げられて行く構造なのです。何とかストップして定住圏を作り、地方がもう少しカをつけるように構想したわけですけれども、なかなか旨くいかなかった。今度は多極分散型国土形成ということで、地方にいろんな極を、拠点を作ろうとしているわけでございます。こういう流れを見ますと、拠点開発をいろいろやっても地域がトータルに力をつけないと一極集中を招いてしまうのが現状で、まだ克服されていないと思います。一番最新の1994年の人口のデータによると、昭和52年ぐらいに一旦、人口が地方に回帰したのが再び中央の方に戻っている、そして1994年に地方にまた回帰するというサイクリックな現象が見られます。この人口の流動は経済の停滞が人口回帰を促しただけで、地方が力を持ったから人口が地方に帰ってきたのではないのだということを示しています。
 

3.交流の歴史に学ぶ
 地方がトータルに力をつけていく。トータルな力は交流や連携から生まれ、一つの地方が一つだけで頑張るのではなく、周辺の地域といっしょに連携して力をつけていくことが重要だと認識され始めました。第三全総のテーマだった定住圏も一定の成果を上げたかもしれませんが、もう少し地域と地域が交流していく必要があります。私が作った新しい言葉ですが「空間飛躍的に交流する」、要するに隣接だけではなくて離れた所とも直接交流していく新しいスタイルが、今後の交流のおもしろい形を担うと考えられます。こういうことを含めて「交流型社会」が到来したと言われ始めました。 交流型社会というのは新しい言葉ですが、私は本当に新しい現象なのだろうかと若干疑問を持っていました。いろいろ本を読むとやはり別に新しいわけではない。実は日本ができて今日まで、交流によって国がつくられてきたのです。『新国づくり論』という本があります。サブタイトルに『地域連携軸』とついているので、おそらくお読みになった方もいらっしゃると思います。私は非常に感銘深く読みました。
 『新国づくり論』では日本の歴史を先史、古代、中世、近世、近代、現代と5つに分け、それぞれの時代区分でどんな地域連携があったのかを実証的に明らかにしています。あくまでも試論だそうですが、私は論を進めれば確立した議論になると期待しています。
 例えば先史時代は、採集狩猟の時代ですから動物を捕らなければならない。黒曜石はガラス質の非常に鋭い堅い石ですが、これが国内を流通して行く過程で非常におもしろい交流があったと書いています。私は国東半島の田舎で生まれ育ちましたから、黒曜石の話はこの本を見る以前からよく開いていました。国東半島のちょうど突端に姫島という小さな島がありますけれども、その島の一番端っこに高い断崖がございまして、実はそこで黒曜石が採れるのですね。黒曜石が採れる所は非常に少なかったので、そこの黒曜石が九州一円に広まって行ったのです。
 古代では平泉は交易により発展したと書いてあり、内容についても非常に詳しく議論されています。また中世で非常におもしろいのは塩の交易ルートです。塩は人間が生きていくために最も重要な物質で、海岸で生産されて内陸にどんなルートを伝って行ったか非常におもしろい記述です。長野県に地名で塩尻と残っていますが、あれは日本海の塩と太平洋の塩がちょうど交易のルートでぶつかる境目だったとか。近世では江戸時代の参勤交代は地域交流を非常に活性化させた出来事でした。伊勢参りもあります。私は田舎に育ったのでお伊勢講が行なわれていました。皆で金を出して誰かを派遣するのですね。伊勢にお参りをする時に文化とか、習俗とかが非常な勢いで交流したわけです。あるいは物をつくる技術が伊勢参りを媒介として広まっていったと言われています。
 その歴史から何を学び取るかですが、本の中にいろいろなルートが地図に措いてありました。我々が今、いわゆるマストラで経験することのできない、山脈を横切るとか、あるいは川を横切る、あるいは海峡を横断するルートが非常におもしろく描かれています。しかも宗教だとか、経済、政治、国際、文化、学術、産業、あらゆる形態の交流がそこで行なわれていたと書かれている。こういう連携の形態、あるいは連携のスタイルを歴史的に学ぶことがいかに重要かと感じました。今、東九州連携軸で一番問題なのは大分と宮崎の間の交流連携が非常にボリュームが小さくて、なかなかアピールできません。しかし歴史的に見れば、やはりいろいろな連携が行なわれていたわけで、それを先人から学ぶ必要があるのではないかと思います。

4.多様な空間軸・交流軸を用意する
 この本に私の知識を重ね合わせると自由な連携を可能とする空間軸がもっと多様に用意されているように思います。従って先程のマストラ、大量交通輸送を媒介とした交通軸、東九州軸で言えば日豊本線や東九州自動車道、まさに構想されて皆で一生懸命作ろうと、とにかく早く作ろうとしているもの以外に、多様な空間軸を用意することがもっと重要なことではないかと感じたわけです。
 例えば一般国道とか、市道とか、町道とか、あるいは広域農道だとか、スーパー林道、こういうものをきちんと整備して、その中を東九州自動車道が、あるいは高速化された日豊本線が走って行く姿を想定する必要があるんじゃないかと思います。これを一般論で言いますと、道路のネットワークはヒエラルキー構造、要するにピラミッド構造になっています。高速道路があって、1級国道があって、2級国道があって、地方主要道があって、一般県道といった具合です。都市と都市の間を結ぶ場合も、主要な道路が、主要な都市が先に結ばれ、小さな町につながるというヒエラルキーがあるわけですね。ヒエラルキーの段階構造に加えて、いろいろな地域が、例えば大都市と地方都市がダイレクトにリンクするネットワークを考えていかなければならないということが、歴史から学ぶことの一つです。
 40年ぐらい前ですけれども、私が子供の頃は歩いてあちこちに行くのが普通でした。
国東半島は山が非常に険しく、中心から稜線が放射状に広がる地形なわけですね。ですから道路を作るのが非常に大変です。山を越えて海に遊びに行く、あるいは潮干狩りに行くということが行なわれていました。あるいは隣の町との交流にも踏み分け道を行かなければいけない。そういう踏み分け道が縦横に走っていました。今は消えてしまったそんな踏み分け道を、一つのアナロジーですが、大事にしていくということが本当は新しいコンセプトを生み出すことになるのではないかと考えます。
 道路ネットワークがきちんと作られた状態を想定し、その中に今度は活力ある地域がきちっと位置付けられるということが大事です。活力ある地域が星座のようにつながってお互いにリンクしていく、そういうリンクした状態、あるいはリンクするということが地域連携軸になってくるんじゃないでしょうか。リンクされた活力ある地域が連携交流することによって一層の地域発展を望む。非常に楽天的になりますが、相乗作用によって地域が発展する、そのために地域連携軸は必要だし、発展すれば地域連携軸が作り上げられていくという関係ではないかと思います。この点については後のパネルディスカッションの中で、地域の問題としていろいろと討議をしていきたいと思います。

5.地域定住と広域交流
 もう一つ私が言いたいのは、地域定住と広域交流ということです。地域に定住して広域に交流することが、今からのキーワードになるのではないかと思います。実は大分県は平松知事が大号令をかけて、若者の定住と過疎からの脱却を課題にいろいろやっています。
私も関連したいくつかの構想にタッチしたわけです。その時に2つの教訓を得ました。
 その1つは定住基盤と交流基盤は非常に密接につながっているということです。例えば住宅を整備する、あるいは文化施設を作るといった定住基盤を作っても、交流基盤としての道路ネットワークがしっかりしていないと旨くいかない。例えば定住したいなと思っても、よそに働きに行く道路がきちっと整備されてないと困る。2つ目は1つの町村で定住基盤は作れないということです。これからは、ある町は住宅、ある町は文化施設を整備する、ある町は産業機能を整備する、ある町は自然と豊かな触れ合いの場を作っていくというような、相互の協力関係が非常に重要になってくるのではないでしょうか。
 町の総合計画を作るコンサルティング的な仕事を手がけたことがありますが、市町村では自分の所でとにかくワンセット全部作りたいと言われるわけです。要するに住宅も文化も産業機能も自然との触れ合いも、全部自分の所で作ってワンセット用意したいと。実際はなかなか難しい。私は自治体が相互に交流関係を作って、自治体と言うよりもむしろ交流体と言っていいと思いますけれども、そういう交流体を作っていく必要があると思います。交流体として市町村の連合になるわけですが、その連合をきちっと結びつけていくミクロなネットワークがもう一方で必要になるでしょう。
 昨年度、太平洋新国土軸と大分県というテーマで地域振興の調査をしまして、私も執筆いたしました。総合研究開発機構(NIRA)で出版しましたのでお日に留まる機会があるかも知れません。
太平洋新国土軸を主体とした費用便益の計算をメンバーの1人が出しています。どれくらい効果があるかということですね。結論から申しますと、太平洋新国土軸は大分県にとって、年間1千億円の便益を生むと試算されています。1年間に貨物で425.3億円、旅客で612億円の便益を生むというわけです。太平洋新国土軸を作ることによって、当然、豊予海峡とか紀淡海峡とか、それを結ぶ道路が作られる。そこを人間や物や情報がどんどん流れる望ましい姿を想定した話です。
 ただ私は策定や調査に携わりながら、そういうネットワークがつくられて、人、物、情報が徹底的にものすごいスピードで流れていく状態が望ましい姿なのかと考えさせられました。今後は環境との問題を考えていかなければならない。ものすごいスピードで、ものすごいボリュームでどんどん過剰流動する社会が望ましいのでしょうか。私共は今、都市計画でサステイーナブル、サステインというのは維持するとか持続するという意味なんですが、地球環境なり、地域や自然環境を持続する可能性を持ったサステイナブルな計画でないとまずいと考えます。地域連携軸は人と物と情報をどんどん運ぶわけで、環境との絡みは絶対避けられない。ですから、環境に対してあまり大きな負荷を与えないように考えなければならない。しかし、人や物や情報が動かなければ地域は発展しない。バランスをどこに置くかを常に意識しなくてはいけません。

6.情報通信軸と国土軸
 もう一つは地域連携軸と情報通信の関係です。地域連携軸となるとどうしても交通軸が頭に浮かんできます。鉄道とか、あるいは高速道路とかを考えるわけですけれども、私はそれに加えて情報通信の問題があると思います。今、マルチメディア社会と言われています。実は私もインターネットであちこちにアクセスし、研究室もまだ30パーセントぐらいですがホームページを作っています。インターネットで直接、世界と情報交流しています。
 インターネットに火をつけたのはアメリカのゴア副大統領です。非常に奇遇ですけれども、ゴア副大統領の親父さんがアメリカの道路のハイウェーを作った親玉で、その息子のゴア副大統領が今度は情報スーパーハイウェーというわけで、光ファイバーをアメリカ全土に張り巡らそうとしています。私は交通軸と情報軸つまり情報通信網の両面を、今後の地域連携軸の中に位置付けていく必要があるんじゃないかと考えます。
 最後に東九州軸の具体的な問題について話させていただきますと、まず第1点は太平洋新国土軸との関係です。第五次と言うかどうかはわかりませんが、新しい全総の中で国家プロジェクトとして他の国土軸と合わせて盛り込まれることはほぼ間違いないでしょう。
北東国土軸、日本海国土軸、太平洋新国土軸、それに第一国土軸が合わさって4本の国土軸になります。若干時間はかかるとしても入ることは間違いないわけですが、東九州地域連携軸をきちっと作った上でなければ、太平洋新国土軸は生きてこない。逆に地域連携軸をきちっと作ることによって、太平洋新国土軸も作られるという関係があります。従って東九州国土軸を早期に達成させるように動かなければならない。先程、大分と宮崎間の交流のボリュームが小さいと言いましたが、地域づくりの中でいろんな連携を生み出していきながら東九州連携軸を実体的なものにしていきたいと思っています。
 よく引き合いに出すのですが、宮崎のフェニックス・シーガイアに行った時、パンフレットを見て愕然としました。シーガイアまでのアクセスの時間距離で一番近いのは鹿児島ですが、一番遠いのが大分県大分市であります。大分市には4時間以上かかる、これは飛行機を使う東京よりも遠い。九州で宮崎に一番遠いのが大分県だとパンフレットにはっきり書いてあるのです。これを克服しないと東九州の活性化は望めないと思います。鶏が先か、卵が先かと議論もいろいろあるようですが、私はやはり交通軸の整備を睨みながら交流を活性化させて行く、まずそれをやる。できれば鶏をすなわち交通ネットワークを先にしていただきたいなと考えているわけでございます。
 少し話が雑駁になりましたけれども、次のパネルディスカッションに結びつけていくための前座といたしまして、私の話をこれで終わらせていただきます。
 どうもありがとうございました。