ラーバン・リゾートシンポジウムin TAKETA
1996年11月11日に国土庁の主催で開かれたシンポジウムの記録です。
 
 関連の記事が国土庁のホームページに紹介されています。
 
パネルディスカッション・「地方都市中心街に未来はあるか」
 
報告書(国土庁地方振興局発行)
    
     コーディネーター:政所利子((株)玄代表取締役)
         バネリスト:泉  麻人(コラムニスト)
                佐藤誠治(大分大学教授)
                桑野和泉(湯布院町 子どもたちが安心して暮らせる町を願う女性の会代表)
                平良敬一(建築ジャーナリスト)
                吉野国夫(DAN計画研究所所長)
              司   会:成藤宣昌(国土庁地方都市整備課課長補佐)
 

1.コーディネーター、パネリストの紹介

成藤 これから約2時間、先ほど講演された泉さんを含め、6名の方に「地方都市中心街に未来はあるか?」と超してパネルディスカッション形式で議論を深めていただきます。コーディネーター、バネリストの方々をご紹介します。

 まず、パネルディスカッションのコーディネーターは政所さんにお願いします。政所さんは、株式会社「玄」代表取締役としてマーケティング、セールスプロモーションを数多く手がけ、地域振興計画の策定等にも携わっておられます。国土庁地方都市整備課の関連でも、地方振興アドバイザーとして地域づくりのお手伝いをしていただいています。

 パネリストの佐藤さんは、都市景観分析などの学術的研究はもとより、市町村総合計画の策定等具体の地域の振興、活性化にも積極的に関わっておられます。竹田市に関しても、景観調査委員会をはじめ各種の委員会の委員として参画されておられます。

 パネリストの平良さんは、建築ジャーナリストとしてわが国の建築関係諸誌の主だったもののはとんどに関係されてこられました。建築ジャーナリスト界の第一人者といってよい方です。現在は「造景」の編集長としてご活躍中です。

 パネリストの桑野さんは、「(株)由布院玉の湯」の専務取締役を勤める一方、湯布院、大分県の地域づくりの若きリーダーとしてご活躍されておられます。子どもが育つ環境という、女性の視点からの地域づくりを目指して精力的に活動されておられます。

 パネリストの吉野さんは、(株)DAN計画研究所代表取締役としてまちづくりに関するコンサルティングをされる傍ら、まちづくりに関する多くの著述をしておられます。商店街に関して、タウンリゾートという概念を打ち出され新しい整備の方向を提案されています。

 パネリストのさんです。講演に引き続きよろしくお願いします。

 それではこれからは政所さんに進行をお任せしますのでよろしくお願いします。

政所 「人類崩壊の危機」とも叫ばれる中、社会・経済のしくみが、地球規模で大きく変わろうとしています。同じように、地方分権下における、地方都市がいかに自立し、どのように活力を生み出す構造をつくっていくのか。地方都市は、地球規模の課題と同様に数多くの難題に直面しているといえるでしょう。
 地方都市、特に中心街の多くは、こうした時代の潮流の中で、商業としての機能に加え、人口減少・高齢化といった変化にも対応して居住空間、生産空間等の機能の複合化、再生が、求められてきているように思われます。
 まず、佐藤さんに伺いたいのですが、地方都市そしてその中心部の魅力づくり、活性化等をいかに考えていったら良いでしょうか。

2.地方都市及びその中心部の魅力づくりと活性化

佐藤 大分大学の佐藤でございます。地域計画や都市計画を専門としております。
 地方都市の魅力づくりということについてですが、地方都市は人口を相当な速度で減少させているわけですね。その中で地方都市の中心部の魅力度もかなり落ちているのが現状だと思います。たとえば大分県で言えば、この竹田市や、宇佐、豊後高田、杵築、臼杵、津久見、佐伯などですね。こういう中小都市の人口はどこで減少しているかですが、これらの都市は、地方都市に共通することですが、いずれも後背地として郊外に農業地帯を持っているわけですね。そしてこの、農村部の人口の減少と中心部の人口減少の同時進行の中で、シェアとしては中心部が大きくなるというプロセスをたどっているわけです。
 中心部の空洞化を防ぎ、中心部の人口を量としても大きくすること、これが大事であると思います。都市全体の人口は減少しても、中心部の人口は増加している。したがってそのような方向に導くための施策を講じることだと思います。人口を減らすということは、仕事の量に比較して人口が多すぎるからですね。中心市街地に働く場、住む場所を作るということだと思いますね。
 人口減少がソフト面のプロセスだとするならば、フィジカルなプロセスはどうかというと、その典型はマイカーとその対策の問題です。マイカー時代の到来で中心部に車があふれた。
  ここまではよかったのですが、車を外に追い出そうとしたわけです。大都市型の対策を取ったわけですね。バイパスを作って、通過交通だけをバイパスさせればよいものを、丸ごと通過させて、さらに公共施設も郊外に移転させてしまう。竹田の場合も市民会館、市庁舎、農協を郊外に移転させ、商業施設も郊外に重心が移ってしまった。こういうなかで都市の活力が失われていった、中心市街地の魅力が失われていったわけですね。
 それからもう一点、付け加えさせていただくと、今回の「ラーバンリゾート」の発想は多分に旅行者的発想が強いように感じられます。先はどの泉麻人さんの話もそういう傾向を感じましたが。すなわち、東京の人がいかに地方都市、その中心部を楽しむかということですね。しかし地方都市の魅力は中心市街地だけではないし、中心市街地だけでは成立し得ない部分があるわけです。中心部と郊外に展開する農林業地帯がセットになって地方都市が成立しているわけです。したがって郊外の農林業が衰退すると地方都市の中心部も活力を失ってしまうわけです。こういう関係性を十分認識する必要があると思います。
 これらの中心部衰退のプロセスを逆方向に辿ることが可能なような施策を展開することによって、中心部の活性化につながるということだと思います。

政所 3つのポイントにまとめていただきました。地方都市の活力を呼び覚ます、そこからの改革が必要である。またそれは外の人のためのものではなく、内なる人のためにまずスタートしなければいけないというご指摘でした。
 それでは引き続き、桑野さんのほうからお願いいたします。

桑野 私は、竹田には子供時代からよく通っていまして、印象はトンネルを抜けると町がある、しっとりとした落ちついた町、歩ける町、そして「大分・竹田」とわかる和菓子がある町、あと水がおいしい、こういう印象でした。10年ぶりに今日訪れる機会があり、やはりいいところが残っている町だなと、改めて感じました。
 その一方で、いいところがあるのに生かされていないという面も感じています。というのは、竹田というとどうしても落ちついた町とか、古都竹田とか、そういうイメージになっていますが、もっともっと竹田は違う顔を持っているのではないか。そういうイメージをもっと売っていくことも可能だと思っています。
 湯布院町は今「アートの町」とよく言われます。でも私の子供時代、湯布院とアートというのは全く関係もありませんでした。でも15年ぐらい前から個人の美術館が建ち始め、そうすることであの人が建てた美術館がいい、じやあ僕らも考えよう。美術館じゃなくても小さな旅館がギャラリーを持ったり、それぞれ町の人がいいと思ったこと、好きなこと、そして外からの人がまた思いを持って入ってきて、その町のイメージを一緒につくっていく。そういうことでいつの間にか湯布院は「アートの町」となっていきました。

 町のイメージを膨らませていくことができるのは、住んでいる人たちが自分たち町の未来をしっかりと考えていくことと思います。町の人が考えていかない限り、何も未来は生まれていかないと感じています。私は竹田の町が大好きです。何か違う魅力も見つけたいなと思っています。

政所 先ほど伺いしましたら、学生時代から通っているここ竹田は、第2のふるさとという実感を持っておられるそうです、一番近いところに住んでおられる桑野さんからお話をいただきました。後ほど、ご自身の活動を通じて、地方都市としての竹田、また湯布院のまちづくりという視点でもお話を伺います。平良さん、お願いいたします。

平良 ご紹介にありましたように、私はもう40年以上も雑誌の編集しかやってきていません。
  それは建築雑誌の編集です。長年やってきまして、すばらしい建築もたくさんできるようになって、だめな建築もまたいっぱいできていますが、幾らいい建築が点景としてあちらこちらに散在しても、それだけでいい町にはどうもならない。
 いい町というのは何だろう。全体として美しいとか、全体として心地よいとか、全体として非常に機能的で過ごしやすい、生活がしやすいというようなことだろうと思いますが、なぜうまくいかないんだろうと考えたら、これは日本の国家の明治以来の行政のあり方にも関係があるようです。建築と土木と造園が、みんなばらばらなので、系統が別なのです。1つの町のある現場で、総合的に、違う分野の人たちが協力して1つの町の趣を、風情をつくり上げていく方向に努力が向かわないので、何となく居心地が悪い。特に大都市はそうです?私はもう大都市は解体しなければいけないと思っているのですよ、特に東京などは。解体してどうするかは、それは我々の理想である都市の単位を考えて、大都市東京都市圏を分割して、その中に何かを導入してくる。それは恐らく緑地帯だろうと思っているわけです。
 この緑地帯も東京を見ると、大きな都市のあちこちに、結構農村というか、畑が残っているのです。現実にそこで農耕に携わっている人たちがいるわけです。これを何とかふやしていって、グリーンのネットワークをつくったほうがいいのではないかと考える、そういう意味で、大都市の解体をイメージしているのです。並行して、当然地方都市がよくなっていかなければいけない、もっと元気になっていかなければいけない。元気になることは、大都市から人が移住してくる、あるいは観光客として、その他色々な交流のために、地方都市の中に他の都市から色々な人が文化を背負ってやってくる、そこで色々な交流が起こることが元気になる意味だと思うのです。そういう意味で、今日のシンポジウムに大賛成で、きょうは出席いたしました。残念ながら竹田市には全然来たことがありませんし、先ほど着いたばかりなので、竹田市についての印象を述べるわけにもいかないのです。
 いただいたパンフレットの印象から言えば、なかなかすばらしい古い遺跡というか、建築文化が残っていることだけはわかります。明日町を歩くのだそうですが、その中で、こういうすばらしい点景を見ようと思います。だけどそれだけでいい町になるかというとそうもいかない。その間をつないでいる、何か文化的な、あるいは物理的でもいいんですが、同じような雰囲気がある連続性をもってつくられないといけないと思うのです。そのためにはきっと何か相当工夫しなければいけない。そう思っているのです。明日は楽しみにしています。
 私は今年の1月から『造景』という雑誌を出しています。出たばかりの雑誌でいつまで続くかわかりませんので、皆さんにも注目していただきたいと思います。この雑誌の主眼は地方の町づくりを元気にしていこう、そのための色々な情報を雑誌に盛り込んでいこう、そういう趣旨で、今までの建築雑誌とはだいぶ違うのです。

政所 いつまで続くかというご謙遜でしたが、地方都市の活力のもととなる総合的な視点に立たなければ、ハードとしての建築だけでは、「町」は完結しないというような点を雑誌に 盛り込んでおられると伺っています。吉野さんにお願いします。

吉野 私は、多分このシンポジウムで、町と商業、あるいは商店街についてお話しする役割だと思います。ただ、残念ながら平良さんと同じようにマイクロバスで着いたばかりで、竹田市そのもののコメントはできないのですが、先ほど泉さんの話で、普通のおしやれと書いた洋服屋さんがあると聞きまして、これはまだいけるなと感じました。
私の商店街論は、商店街組合で一致団結してアーケードを作ったり環境整備をしよう、イベントをしよう、そういうことにやや批判的で、もう少し生活、それも各商店の、そこで住んで商売されている商店主のそれぞれの活動とか、生業、そういうものにもっと足元を置いて議論すべきだということです。商店街組合や、商工会議所の人にはあまり喜ばれない議論をいつもしているのです。そういう観点で考えると、その洋服屋さんの話は、まだ生きているなという感じがします。
 商店街がつぶれていく過程はいろいろありますが、そこで商売している方が、不動産業になっていくケースと、そこを見捨てていくケースの2つがあります。普通のおしやれと堂々と張って、若い人にメッセージを送るというような方がおられるのは、そういう商店街はまだまだ生きていると思います。
 もう1つ、先ほど食事のときに市長さんが、竹田の人は我が町をあまりよく言わない、けなすんだ、謙遜するんだといわれたのです。実は、私は大阪から来ましたが、大阪人がまさにそうなのです。大阪というと汚いとか、えげつないとか、あまりいいうわさを聞かないと思いますが、それは自信なのです。どのように言われようが、実はそうじゃないよという、非常に深い自信に裏づけられた行動様式で、大阪もマスコミを通じて、がめつい大阪とか、間違った都市イメージが定着していてよくないという論もあります。よく知っていけば味わいのある町だと言われるケースも多い。単なる出張ではなく、実際に転勤された方が非常によい町だと帰られます。竹田の町も多分そういうことかなというふうに聞いていました。

3.中心街の機能のあり方について
吉野 都市の中心部の議論は2つあると思うのです。いわゆる行政施設とか、業務施設とか、その都市を象徴するような博物館とか、神殿施設と呼ばれる場合もあります。そういう中心部の議論と、それから私が問題にする商店街のあるような町としての中心部であります。商店街でも色々ありますが、商店街は基本的に私の理解では、個々の商店が幾つか集まった町である、商店街の街というのは町なんですね、ですから商店街組合をベースに役所で線引きした区域といった空間ではなくて、あくまでも町に焦点がある。
 あるいは逆に商店街の発生をいつごろとするかによるのですが、仮に平安京の10世紀、あるいは12〜13世紀の町並みを考えた時に、その通りに沿って出てきた施設は、住居兼店舗、あるいは店舗兼住居といってもいいですが、何らかのなりわいを行ってそこで住むことが一体化していたわけです。
 そのような商店街がまさに都市の中心部で、今現在、減少している。衰退している。そもそもの自然発生的に出てきた都市の一番原点である商店街が、今衰退しているとすれば、都市の根幹にかかわる、都市の崩壊につながるような意味を持っている。それを単に商店が歯抜けになったから衰退するとか、都市が崩壊すると言っているところに非常に問題があると、1つ指摘できると思います。
 今、国で、特に通産省で、空き店舗対策をやっているわけです。これはどういう事業かといいますと、商店街にシャッターを閉めたり、空き店舗がでると非常にみすぼらしい、お客さんが遠のいていく、お客さんの数も減ってくる、だから空き店舗があれば組合で借りて、何かお店でもやろうと。商店街組合がそこに、若い人に商売をやらそう、賑わいを出そうと言っているわけですが、実はこのやり方は、すぐ失敗する。行き詰まるのは目に見えているわけです。そのような空き店舗ができたからそこで補助金をつつこんだり色々なことをして、上辺のお店の賑わいをつくっても、それはせいぜい1割。空き店舗が1割とか2割であれば、無理矢理できると思うのです。
 ところが今既に始まっているのは、2割、3割の空き店舗が出てくる時代ですし、私は大阪で研究会をやっていますが、そこに出てこられている商店街の方に、あと5年後、10年後の商店街は何割ぐらいのお店が残りますかと言うと、大体、私の知っているあの人とこの人はもう確実ということで、ほぼ後継者問題ですけれども、3割か4割しか残らないんじゃないか。それも何十年先じゃなくて、5年、10年の間にそうなるだろうと。くしくもこれは、全国の今日本の商店数というのは多すぎるのですけれども、今から10年ぐらいで、今の3割、4割ぐらいの商店数になればちょうど需要と供給が一致するような、適正商店数になる。これはやや厳し目に見た場合の数字ですが。
 将来そういうことが、単に徐々に減っていくというのじゃなくて、極端に減っていくと考えた場合、それを前提とした町づくりなり、商店街対策を考えていかないといけない・わけです。その時の商店街は、商店が減少して、店舗の少ない商店街が理想像として出てくる。そこを考えないといけない。
 その時に2つの道があります。1つは、商店街は密集して賑わいがないといけない、慶応大学の伊藤滋先生はその理論です。ですからぽつぽつ商店がずっと集まって、集まった一画をつくれという提言をされています。私は、それと逆の発想でして、むしろ商店街は、一画に集まって発生してきたのでなく、通りに沿ってぽつぽつ自然発生的に分散型で起きてきて、それが徐々に需要が高まって店がふえていくごとに埋まっていって、それがずっと線的に広がった、あるいは面的に広がったのが商店街だと考えています。
 ですから商店街は、減少したときの姿が、寄せ集まって生き延びる方法と、分散した形で生き延びる方法があって、私は分散した形での生き方を目指す方法もあると思う。そうすると商店街対策は非常にやりにくいのです。そこで何が残るかというと、お店以外には仕舞屋さんが残るんですね。あるいは住宅が残る。私は、商店街が増える時は自然発生的に非常に元気な町なんだけれども、減っていく時に非常に衰退感がある。しかし、減っていく過程も元気な減り方というのを目指すべきで、減ったときに、最後にその町から商店数が、仮に3割、4割になった時も、非常に元気な町であり続ける。そういうことがあって、それは多分通産省とか何とか省という縦割りの施策ではうまくいかないので、その辺をこれからやっていくべきだという議論をしています。

政所 冒頭に実行委員長から、縦割り、細分化された行政の枠ではもうくくれない、総合プロジェクトとして中心街というテーマに総力をあげて取り組んでいかなければ、地方都市の再生はないのではという話がありました。21世紀初頭には商店数が3割減になるという厳しい数字が出ましたが、価値観が変革し、今までとは違った機能を担う救済策、または地方都市として独自に、大都市圏の商店街とは違う方向性、異なる中心街づくりはないのでしょうか。

4.地方都市独自の中心街づくりとは?

佐藤 そういう元気の出し方を自助努力でやっていくというのが非常に難しいと思うのです。
 吉野さんは元気を出しながら減っていくという、元気を出しながら安楽死するというか、ちょっと矛盾ではないかと思います。ちょうど竹田と同じくらいの人口規模で豊後高田という町があります、大分県北の1万9千人ぐらいの人口です。周囲に香々地町、真玉町、大田村という3つの町村があります。大分県の国東半島の北側のつけ根です。そこも人口をかなり減らしてきていて、つい先週の金曜日に同じようなシンポジウムがありました。中心部が活性化するには、その町だけじゃなくて、周囲の町と交流しながら、別に国土庁さんのお先棒を担ぐわけではないが、交流人口をふやすことが大事だと思っています。
 色々議論する中で出てきたことは、・国東半島はご存じかもしれませんが、仏教文化、六郷満山文化という、平安時代から鎌倉にかけての山岳仏教が栄えたところなのです。大分県で2つある建築の国宝のひとつ富貴寺というのがあります。もう1つは、宇佐神宮ですが。そこに年間70万人の参拝客があります。こういう人たちを今までは中心部に引き込んでくる発想がなかったのですね。我々としては、そういうところの観光客を中心部に引き込んでいきながら、あらゆる交流をし、中心部の商店街の活性化に結びつける方法はないかと考えています。豊後高田の中心部に、竹田はどではないのですが、歴史的な建築、町家ですが残っております。ところがそのよさをほとんど看板でおおってしまっている。あるいは歯抜けになっているまま放置されている。そういうものを再生する、商店をそこでまた新たにやっていくというのは、過剰にまた店舗面積を増やすことになりますので、別な用途に転換しながら町に人を引き込んでいくという方法を採ろうというふうな提言をしました。
 竹田でも、例えば、岡城に来られる観光客を、中心部にどれだけ引き止められているかは疑問ですね。中心部の駐車場対策も遅れていることも1つの原因なのですが、あらゆる手立てを講じながら郊外にあるものと、中心部との交流をしながら中心部の活性化を図っていくことが必要ではないかと思います。
 竹田では、今、そういう声が小さくなってきているのかもしれませんが、中心部と、それから玉来にあるロードサイドショップ、これを結びつけていく。こちらは歴史的に蓄積されたところ、向こうは新しい中心です。タイムスリップロードいうことがあったけれど、同じ都市の中でなかなか交流されていないところを交流しながら、中心部を活性化させていくことをもっといろいろな形でやっていく必要があると思います。

政所 先ほど、泉さんからハチの話を伺いましたが、今、佐藤さんの中心部に引き込んでいく策。引き込んでいくというのは、何か魅力があるか、看板娘がいるかわかりませんが、先ほどのハチの例のように泉さんの場合は1地域、1カ所で1泊2日滞留になったわけですね。
 明日歩いていただく皆さんのお手元の地図を御覧下さい。図に示す10cmがゆっくり歩いて10分だそうです。泉さんの場合は、例えば、1泊2日かかるようなおもしろい町の見方をされています、魅力で引き込んでいく要素が重要ですね。又、若者一辺倒でなく、私どものように高齢化に向かっていく多くのメンバーも含めて、様々な世代の人を引き込む魅力をつくるにはどうしたら良いのでしょうか。例えば、具体的にとても気に入っている地方都市の例など、具体的にお話しいただければと思うのですが。

5.様々な世代の人を引き込む魅力づくり

 今日はこういう仕事で商工会議所まで来ましたが、観光で岡城へ行ったらそのまま車で大分か熊本に出て飯を食おうかとなっちゃうかなと私自身岡城に行った時考えました。さっきこの周辺をせいぜい1キロぐらい、町中を歩いただけですが、さっきも言いましたが、名物料理みたいものがもっと大々的に欲しい。料理でなくてもいいのですが、なにか手軽に、例えば竹田の名水で作ったくず餅が、実際はなくても実は100年前からやっていたみたいな大うそを。
 桑野さんが、和菓子がおいしいところがあるといわれたけれど、やはり全国的にはそれはあまり知れ渡っていない情報なのですよね。だからもう少しえげつなくていいので、町を歩いていると竹田の何とか焼きとか、そういうものがあっていいのかなと思いましたね。一番手っ取り早いのは食べ物かなと僕は思うんですけど。

政所 人間の欲に対して従順にものを創っていく、売っていくことが一番大切ですね。

 それと古町は古町ではあるらしいのですが、一般的にはわかりにくいですよね。僕みたいな、ちょっと偏屈者が歩いて竹かご屋さんに入ると、それはそれでぽっとそういう中に見つけるのがおもしろかったりもしますが、一般的にはもう少し伝統的な町並みであると伝わってこないと、わざわざ歩こうという気にならないと思いますね。もう1つやはり中途半端ですよね、町自体が。

政所 竹かごそのものも魅力ですが、お話されたようすでは人の魅力も伝わってきたのですが、物をただ、物として売るのではなくて、そこに何か地域人の魅力が加味されてくると商店街はおもしろいと思いますが。

 といって、90歳のおじいさんを前面に出してやってくれというわけにはいかないから。

政所 桑野さん、最近はホームページを開き国際的に発信をしているそうですが、中心街、特に商店街では女性の役割というのは大変大きいと思います。また何を今の消費者は求めているか、どういうふうな伝え方をしたらいいのか等も、どうやらおかみさんたちはかなりの情報量を持っていると思うのですが。

6.中心街での女性の役割

桑野 色々な会で女性の方がより元気がいいなと思います。これは竹田に限らないですが、例えば、商店街を考える会とか、そういう会が視察に行く時は、ほとんど男性中心ではないかと思うのです。でも一番お店にいるのも女性だと思いますし、考えていこうと思っているのも女性じゃないかなと私は思っています。女性だけの会をつくって、おかみさん会で研修に行けばいいよというものでないと思います。例えば、商店街をどうしよう、町をどうしようという時、いつも年齢層とか性別とか職業が非常に偏っていると思います。町は子どもからお年寄りまで住んで、職業も色々です。色々な人が住んでいるからこそ町は生き生きとしているわけですから、物事を考えていく時に、女性だけとか男性だけとかでなく色々な人が入って1つのテーマで話していける、そういうことが商店街づくりも含めて必要じゃないかといつも思っています。

政所 今、町を歩いてわくわくする、五感を刺激する町づくりも、まちづくりのコンセプト表現としてよく使われます。中心街の担う装置として、そのような五感に強く訴えるのは非常に大事だと思います。中心を形成するための街路手法、都市構造、機能等の分析をされていますが、五感を刺激する心地よい街路づくりについて、ご意見をいただけたらと思うのですが。

7.五感を刺激する心地よい街路づくり

桑野 竹田の魅力のことの1つですが、竹田というのは、いい面でも悪い面でも歩くしかないと思うのです。この道を広げることはとても無理ですし、そうであれば「歩く町」の宿命として、もっと徹底して歩くことを重視したような政策が要るのじゃないかと思います。今のままでは全く楽しさに欠けるのですね。歩く時はやっぱりわくわくとか、楽しさとか、安心して歩けるとか、そういう要素が必要です。これは観光客だけではなく、そこに住んでいる人も同じ気持ちだと思うのですね。そういうものがこの竹田の町で歩く要素に入ってくるといいなと思いました。

平良 アメリカの実情は知りませんが、本で読むと、新しい町をつくる時に、高速道路は入らない、自動車もなかなか入らない、歩く町をつくることがヨーロッパでも盛んになっているようです。自動車が入れないので廃れたという話よりは、なるべく歩く街路にし、自動車はあるところまでしか入れない、行きどまりで止めてしまう工夫で新しく町が元気になっている例のほうが多いのですね。
 外国の例ですが、ハンガリーのブダペストに泊まった時に、泊まったホテルは割に古いほうだけれども近代的。ところが夜の食事の時、ブダというところに古いお城があるので、お城の跡へみんなで行きましょうと誘われた。そこはレストラン、うまい食事ができるだけでなくて民族音楽を聞かせながらすごく賑やかで、そういう城跡の使い方もすばらしいですね。そういうことは日本人はなかなかおっかなびっくりでしません。あまりいいことだとは思わない。
 ドイツの古いローテンプルクヘ行ってみたら、本当に中世都市、ものの本にある中世都市そっくり。ところが研究者によると、確かに9世紀のころにこの町はできている。延々と12世紀、14世紀。14世紀以後もある時期はちょっと廃れて、見捨てられていたのですが、特にこの20世紀になってから注目されて、すごい旅行客で賑わっています。どのようにできたかというと、中世の町をそのまま残していたのではないんですね。そこの市民が中世都市へのあこがれ、中世の町、あるいは中世の造形的な雰囲気に憧れて、その熱情というのかな、イメージによりだんだん作っていっているのです。その結果、これは我々が見ると中世都市なのだが、しかし10世紀以降、7〜8世紀もかけて作り上げた、20世紀になってもまだ作っている、改造もしているのです。この町には非常に厳しい町で決めたコードがあり、外観に対する規制がいっぱいあるのです。そういうことを我慢しながら作り上げている。やはり発想を転換して、ただ残すだけではなくて、何か新しい発想の転換で町の様子を変えていく。
 もう1つ、ヨーロッパの古い町を旅して一番驚くことは町の中心に広場があることですね。広場の前には大体市庁舎があるのです。その広場は、マルクト広場といってマーケットですね、昔から市庁舎、あるいは宮殿など、立派な公的な建物がある前に市が開かれる。そういうことで広場は成り立っているのです。お祭りもそこでやるわけです。大道芸人もそこへ来てやる。そういう広場が町の中心にあって市役所の前にあるのです。教会も近くにあります。ところが日本で市役所は、そういうところから大体離れたところにあります。賑わいとは別の威厳を持った建物が明治にできてきた。この辺も発想を変えないといけない。
  商店街の活性化ということに関係があるのですが、小さな地方の町へ行くと朝市が開かれていたりする。ヨーロッパにもある市が開かれる。これは商業的の活動だけれども、都市の近辺の農民たちが持ってきて商売をしているのです。佐藤さんか、吉野さんもそれに関連したようなことを言ったと思うのですが、都市の中心部のことばかり考えても発想の転換にはならないのです。やはり都市はこれから周辺の農業、農耕地帯と農民たちを支える。支え合う農民たちも含めて市民なのだ。都市の市民と農民との合作をしていくべきじゃないか。北海道のワイン工場を作ったりするのはそうですね。新しい事業を始めているのです。だから商店街もどんどん廃れていくのはしようがない面もありますね。そこで何か新しい事業を別の発想で始めることは可能ではないかと思います。
 本で読んだのですけれど、池田町はなかなか大胆なことをやるなと思う。池田という姓の人を全国的に調べて集まってもらって知恵を出し合う。そういうことも町の活性化には大いに役立つのです。竹田という名前をいっぱい集めて何かイベント起こす、それもここへ人が集まる1つの要素なのです。

政所 ご指摘がありました一地域で完結するのでなく、周辺地域を取り込んでいく、その周辺地域の住民も更にパワーアップしていくというお話がありました。中心街は、商業という1つの機能に、加えて、住まう、居住する機能、そして創り出していく機能という多様な機能を担います。広場というヨーロッパの例が出ましたが、まさしく広場のような役割が実は必要になってきている。それとも例えば、今こそ、機能として全取っかえではないですが、かなり大々的な外科手術が必要なのでしょうか?
 中心街を形成することを考えますと、商業だけではもちろん担えない、居住の機能も持つ、集合住宅も含めて。またものを創っていく、ある意味ではファクトリーの意味をも担っていくことがのぞましい。多機能型への転換で元気づけになるようないい例がありましたら、ご紹介もいただきたいのですが。

佐藤 先ほど五感に訴えかける町づくりというふうな形で、あるいは歩くことの大切さが強調されましたが、明日、町のウォッチングをやります。それからお手元の資料の中にも図示してありますが、歴史の道を、中心部の歴史のポイントをつなげています。単に街路整備ではなくて、1つのコンセプトをきちんとつけ加えているわけです。途中に小さなトンネルがありますが、そこをくぐると滝廉太郎の作曲した「荒城の月」が流れる、そういう仕掛けをあちこちに用意し、五感に訴えかける町づくりを既にやっています。

8.多機能型への転換の手例

吉野 再開発は、もう今曲がり角に来ていると思います。特に駅前再開発が、この数年日本全国で起きていますが、最近の駅前再開発は非常に悲惨で、商業機能の核店舗が入らないですね。再開発の商売は、核店舗を入れて、その保留床で事業収支を取っていくことなのですが、そういう商業の大型店が地価にふさわしい商業床の経営を続けていく能力すらない。そういう状況で無理無理やっていくので、駅前再開発ですごいビルができたということで見にいったらマンションだった。集合住宅の下層階にちょろちょろと申しわけ程度のお店がある例が多くなっています。
 そういう時代は過ぎて、これからの都市の再開発は、大規模な面的なもの、高層、高密度をやるような時代ではなくて、極論すれば低層、低密。今、特に商店街は容積率400%が多いのですが、実際歩いてみると木造2階建てなのですね。ぽつぽつとつまらんマンションとか、5〜6階建てのビルがあるのですが、そこも空き店舗になっていたり、そういう状態なのですね。大規模拠点開発時代から、小規模連鎖型開発といいますか、そういうものをうまくリードしていくことが必要であって、特にその場合一番ポイントになるのは、地価をその事業によって急速に上げないということです。そういう意味ではむしろ余っている容積を地区計画等で抑え込んでしまう。
 実は地区計画で、床の容積を抑え込んで成功している例があるのです。逆に地区計画は規制だけですから、一時期全く利用されず、何とか地区計画を利用させようという動きがありました。最近のおもしろい地区計画は、東京の自由が丘の商店街の地区計画です。成功している例です。手法は別として、大規模、大改造という時代ではないだろうということです。

政所 自由が丘は東京の例で恐縮ですが、自由が丘は、商業集積ももちろん十分ありますが、若い人たちが芝居を見にいったり、ライブハウスがあり、裏通り文化もある、猥雑な要素も多彩に持っている町だと思います、多様な価値観を受けとめられるものがあり、常に刺激的な情報発信をしていることも重要なのでしょうか。

吉野 自由が丘は大規模店を入れ損なった、商業集積としては一時期ずっと魅力のない町だと言われていました。自由が丘にはへそがないとか、核がないとか言われて、最近は自由が丘が最も先進的な商業集積だと言われるのですが、結局それも自然発生的な流れに任せてきたわけです。今、特に自由が丘が注目されているのは、いわゆる超ミニテーマパークですが、10軒ぐらいの商店がパティオを取り囲むように店舗ができていたり、ペニスをそのまま再現したような商業施設であるとか、これらは低層、低密開発なのです。低層、低密開発になぜなったかというと、回りが住宅街だからで、法規制的に、あるいは近隣対策上、非常に規制が強くてそれしかできなかったという面もあるのです、逆にそこが非常に今受けているということです。お芝居とかだけじやなくて、滞在型になるということは、飲食とか、今いわれたようないろいろな機能が入っているのも事実ですね。

平良 低層、低密というのは僕も賛成なのですね。1970年代のころは、地方の公営住宅、それから公団でも、とにかく低層の集合住宅のブームといっていいくらい、設計者がみんなそれを目指した時代があるのです。ところがその後どうしたことか、ともかく高層のマンション、超高層のビルがにょきにょきつくられるようになった。超高層はホテルにも非常に多いですが、あれは中に、ホテルの中に町のにぎわいを持ち込んで吸収しちやうんです。だから町のためにはならない。だけど何となく立派なものができたので、町がきれいに力強くなったような錯覚を抱く人が多いのではないかと思う。低いとか、小さいとかというのをばかにしない町づくりがこれから必要だと思うのです。その点は英国とか、特にヨーロッパ、アメリカでも地方に行くとそうですが、低層で小さい、小さい町。ハワードが田園都市論を書いたが、あれを見習って、小さい都市をつくる。世界でいくと、1万とか、2万人規模の都市はそんなに珍しくないのです。むしろ基本なのです。大都市もそれぐらいに将来は分割して、日本列島の中がもう少し分散的に、非常に均衡した配置になるといいと思う。だけどそうはならない勢いが今あるから大変ですが、やはりそういう努力をしたい。小さいほうが魅力がある、小さいほうが力があるのだと。大都市全面否定論というわけではないのですが、国土の相当広い領域に小都市のネットワークがつくられていくことを夢みたい想いがあるのです。

政所 産業面でもダウンサイジングの時代と言われています。やはりヒューマンスケールということでの都市・地域の規模論が今盛んですが。

9.都市・地域の規模について

佐藤 きょうは平良さんと私だけが建築の専門です。今のお話は納得できました。竹田は低層の開発だけしか恐らくできないので、高層といっても非常に困難な話だと思います。実は、非常におもしろいことを聞いたのですが、建物は3階建て位が人と人との接触を保障する上で、すなわち建物を利用する人が交流する上でもっとも望ましい形態だと言っているわけです。これは数学的な解析の結果、そういうことがいえると言っているのです。
 ですから低層の、しかも低層・高密の開発は、数学者が解析して見せても、これは非常に妥当な形態だということを言っているのですね。
 私は竹田の開発、中心部の再開発という形になるかどうかわかりませんが、街路整備をやるときに低層・高密型の住宅も入れる。それから商業機能も集中して入れるということを、3年ほど前のプランニングをやったときに主張したのですが、竹田は、やはり周囲の山の景観を生かすうえでも、ぜひ低層・高密型の再開発という形で中心部の活性化をやるべきだと思っています。
 政所さんがいわれたダウンサイジングは、町づくりをするときに巨大型の都市開発がなかなかうまくいかなかったという点は、皆さんいわれるとおりなのですね。大都市でも、うまくいっているところもありますが、いわゆる人口減少地域の町づくり、それからどんどん成長している町、成熟している町と、それから成長途中の町というふうに言いかえてもいいかもしれませんけれども、やっぱり成熟している町というのはダウンサイジングの町づくりであると。小さな拠点を散りばめていくという形での町づくりというのが、私は最も適合している方法じゃないかなというふうに思います。

政所 小さな町の中に魅力を散りばめるというお話ですが、湯布院のお話を伺いたいと思います。先程、町を低層にしていきヒューマンスケールの魅力づけをする。逆に言いますと、自由が丘のお話も規制が町を活性化した、言いすぎかもしれませんが、そういう意味での都市形成・景観形成をすること。湯布院町はいち早く景観条例をつくられて、市民の方の理解のもとに進められたと聞いています。運動と活動が様々あったように伺っていますが、ご紹介ください。
 

10.湯布院の景観形成

桑野 湯布院の町は、振り返ると何度も大きな荒波が押し寄せてきました。例えば、バブル時期のリゾートマンションブーム、町のほとんどの田んぼが買われ、億万長者が町の中にたくさん生まれました。そうなってくると湯布院の私たちが守っていこうとしている田園風景や湯布院のちょっとした、でも大事にしていきたい空間が、ほとんどなくなくなるのではないかとみんなが一斉に危機感をもちました。私たちにとって何が大事で何を次の世代に残していくかを考えた場合、残していくためには絶対に条例が必要であると考えました。そしてその条例は今の湯布院そして21世紀の湯布院を考えた上でということで、「潤いのある町づくり条例」が生まれました。
 湯布院の町の中は一度来ていただくとわかりますが、条例が生まれた今も、土日は車があふれ、歩く人が本当に不安に思ってしまうような町です。たくさんの人が来てはいますが、ただ歩いているだけ、何を求めて歩いているんだろうという状況なのです。
 湯布院の町はいつも民間も行政も含めて、この先、すぐに変えていけなくても、5年後、10年後どういうようなビジョンのもとで町を考えていこう、例えば歩く道をどうつくっていこう、そういうことは絶えず話されてもいますし、電気自動車をいち早く入れないといけないとかは20年前から言っているのです。でも、なかなか現実は、年間380万の観光客を盆地の中に入れているのですが、この対応に追われているのが現状なのです。
 湯布院の町で非常におもしろいと思うのは、いつも新たに町並みが生まれてくることです。例えば、私の住んでいるあたりを「湯の坪街道」と言いますが、このあたりも全く何もない町だったのです。町の雑貨屋さんみたいなものが10何年ぐらい前から、これからは湯布院の町に合ったお店をつくりたいと、あるお店が地酒専門のお店に変えました。ただお店をつくるのも今までのようなお店でなくて、この地域に合った建物に変えていきたいと変えたのですね。そうすると隣の隣の床屋さんが、「いやあ、昔、そう言えば湯布院の町には、こういう今風の床屋じゃなくて昔ながらの床屋があった。おれのところも変える」と言って変える。そうするとその町の人が、どんどん自分たちが思う湯布院の町のイメージにお店を変えていったのです。そうなるといつの間にかそれに反するようなお店がちょっと出てきますと、自然にそこが肩身が狭くなってくるわけですね。いつの間にか何もなかった街道に「湯の坪街道」という名前がつき、観光のスポットにもなっています。
 湯布院の町の駅が建て替えられました。そうすると今度は駅の建物に合ったお店を作ろうという動きが出てきましたし、あと地ビールのお店が今湯布院町にありますが、そこが360万の観光客を更に20万増やしたのですね。380万に去年なったのです。その20万は、ビール館、地ビールのところに行った。なぜ地ビールにそんなに人が行ったかというと、やはり地域に開放していた。日本の温泉観光地はどんどん内に入れていく、自分のお店に入れていくという発想だったのですが、湯布院の町は最初から、例えば、旅館とかホテルが湯布院の町に出てもらうような経営方針にしていた。そうするとやはり地域が潤ってくる。旅館だけとか、
ホテルだけじゃなくて、地域にお金が落ちていくことによって皆さんが地域を考えていくことにもつながっていく。こういうことで湯布院はいまだにたくさんの問題を抱えながら、条例をくぐり抜けながらいろいろな問題があるのですが、それでもまだ元気にやっていけていると私は思っています。

政所 古い観光地、温泉地に伺いますと、悩みのひとつが、一点にお客様を集中させる大規模旅館の囲い込み作戦。これを街に開放しなければと、外湯をつくったり、魅力ポイントを点在させる工夫を様々やっています。また、ビールで20万というのは、やはりおいしいものには生活者は従順ですね。先ほど名物の和菓子のお話も出たのですが、私は竹田でとてもおもしろいお魚の頭料理に出会いました。地元で食べていらして、一般の観光客はなかなか触れられない。居酒屋さんに行って、地元の方に聞かないとわからないような魅力的な産物が、まだまだ、ざくざくある。いろいろな情報がありそうに思いました。ある意味では書き割り風な標本の町にしてはいけないのですが、今の時代のニーズに合わせていく魅力づくりで、できれば竹田へのヒントをいただけたらと思うのですが。

11.時代のニーズに合う魅力づくりのヒント

 先ほどの桑野さんのお話から、私は残念ながらまだ湯布院は訪ねたことがないのですが、大体イメージを思うと、湯布院はやはりセンスプロデューサーというのですか、行政とは違った全体的なこういう感じの町にしていこうという方がいて、バリ島にウブドウーというところがありますが、例えば、別府が下のクタビーチとすると、そこからちょっと山に入って湯布院は、田園風景があってやや高級感のあるリゾートホテルがある。ウブドウーみたいな雰囲気にしていこうという考えがあって、町をつくり上げていくセンスプロデューサーみたいな人がいて、でき上がっていった場所だと思うのですよね。
 やはり町づくりをするときに、本当に町の元々のたたずまいに合った変え方が非常に大切だと思います。東京の例では、恵比寿のガーデンプレイス。ああいう駅には、割と高層ビルがまだなじむと思うのですが、そうでない場所でも高層ビルを建てれば近代化するといった流れがまだ続いています。例えば、代官山は同潤会をつぶしてばか高いビルを建てようとしていたり、三軒茶屋もキヤロットタワーというとんでもなく高い高層ビルが建ってしまいましたが、どう見てもなじんでいません。
 やはり町のパーソナリティに合った建造物のつくり方が、これから非常に大切です。自由が丘も駅前の道幅が狭くて、大型バスなんかが入れないような町並みだったわけですよね。
そういう町は、別な言い方をすれば歩ける町だったわけですね。車があまり入ってこなかった。そういうところに小振りの町をつくるのは、町の元々のパーソナリティに合った開発の仕方だと思うのです。
 ですからこの竹田も、全体を岩に囲まれたような、地形を大切にしてつくっていっていただければと思いますね。この真ん中にばか高いビルが建っていても、それはかえって破壊するようなもので、京都のホームの真ん前にでかいホテルを建てて、寺も何も見えなくしてしまうような愚挙と同じようなことはしてほしくないです。これが実現するかどうかわからないですが、隠れキリシタンの洞窟礼拝堂みたいな、岩をくり抜いたようなお店がちょっと建っているとすごい楽しいなんていうふうに、もちろん安全上の問題もあるかと思いますけれども。そういう元々の地形を生かした町ができ上がってくると、観光的な視点で言えば非常にいいのではないかと思います。

政所 先ほど何人かの方からもありましたように、トンネルを抜けたら町に入る、まさしくこの地形はほっとするような空間だと思います。

佐藤 竹田は先はどからトンネルとおっしやつていますが、レンコンの町と言われていたのですね。要するに穴がたくさんあるから。そういう穴を抜けて中心部に来て、とてつもないビルディングが建っているということでは、現実性もないのですが、地形のよさが生きてこない。歴史の道は、周囲の岩山を結んで、実はその辺に歴史ポイントがあるので、それをつなげているのです。加えて中心部の町並みにも古い商家が残っています。何年か前にした調査の中でその評価もしました。そういうものをラインとして整備するのは、現実的に非常に難しい、吉野さんがいわれたような現実的なメークポイント、そういう歴史的に非常にいいものをきちっと整備したものを3つか、4つぐらいこの通りに整備し直す。変な看板も取り除いてきちんとしたものを整備することで蘇ってくる。それを選定する作業が必要じゃないかなと思うのですね。もちろん歯抜けになった「しもた屋」というのもあるわけですが、それを含めて全部商業機能を回復することは、できる話ではないなと思います。
 先程12時前に鈍行で竹田駅に着いたのですが、来る途中に向かいに座っていたおばあちゃん2人が非常におもしろい話をしていたのです。「竹田の中心部はもうどうしようもない。とにかく5時ごろになったら店も閉まっていて、やっと私たちが買い物に行ける時間になると閉まってしまってどうしようもない。買い物もできない。ですから私たちはちょっと遠いけれども、三重とか、あるいは玉来のほうに買い物に行っている」と。やはり、中心部できちんと商売する人を周りが支えていく、あるいはそういう人たちが育っていく環境をつくっていかないとだめだと思います。
 もちろんそういう方も何人かおられますが、自分たちがそこで踏ん張って商売して生活していく人間、そういう人たちが育っていくことを期待したいと思います。

政所 竹田市ではボランティアガイドとして、ご要望のある方に町を観光案内する組織、市民のグループが、10何人もおられると伺っています。
 町を案内するいわばタウンマイスターといいますか、町の達人がいらっしやり、ハードに加えて、そうしたソフトの人づくりが大変重要で、竹田はさすがにきちっとつくっておられるとお話を伺いました。例えば、三沢の町で、午前中のプレ・シンポジウムの発表の中にあったのですが、12月のサンタの宅配サービスをしている。商店街の中でいわゆるハード整備、また空き店舗対策、個店の努力と様々した上で、重ねてソフトのサービスとして人づくりが、かなり盛んに行われてきていると思います

12.ソフトのサービスとしての人づくりと発想の転換

吉野 先般も人づくりの話をしていたのですが、よく後継者難と言われるのですが、よくよく聞いてみると、後継者難じゃなくて、後継者になりたがらない人が多いというだけであると。要は自分の息子を、この商売を継がしても決して幸せになれないと親が勝手に思っている。それから息子のほうも、あるいは娘のほうも、こんな仕事よりは、サラリーマンのほうがよほどいい収入だし楽だと跡継ぎになりません。逆に後継者がちやんとできているところは、儲かっている商店なのです。ですから商売がもうかれば後継者難は一気になくなるのです。だから仮に3割、4割にお店が減っても、その3割、4割のお店の後継者が、みんなばりばりと頑張って、そこそこかなりいい収入と生きがいを持って、しかも一国一城の主ですからプライドを持って生きていけるのです。
 サラリーマンのように9時から5時という生活はまずできない。商店街活動もすればほとんど商売の中に生活があることになる。商売あるいは労働の中に生活があるというのは、労働組合的発想からいくと非常にだめなのですが、生きがい論でいうと、実はそれは楽しいのです。これから物を売る商売だけでは成り立ちませんから、何らかの加工をしないといけないですね。ソフトでもそうですし。物を加工したり、自分だけのオリジナルなものにして、オリジナルなサービスを、付加価値をつけて売るということです、そこには非常に創造の楽しみがある。そういう生き方がおもしろいという時代になってきたと思うのですね。今の若手の商店主の方々と話していると、みずからそういうふうに育ってきています。何も講演会で話を聞いてわかるのでなくて、実践を通じてされているのが実情じゃないでしょうか。
 いいところはそうなのですが、逆のケースを見ますと、やはり人材育成ができていない。
本当に人材育成するような役所はありません。やるのがいいのかどうか問題ですが、私が見ている限りではやはり現実の中で、会社でいうと、OJT、オン・ザ・ジョブ・トレーニングということだと思います。

政所 午前中のプレシンポジウムの中で、倉吉市のお話もありました。鳥取の駅前商店街で、元気のある商店の1つの例として、オリジナルの万年筆をつくるお店をご紹介いただいたのですが、そこには世界中から注文が入るそうです。物プラス技能、商店街の中の元気商売が変わってきています。

平良 たまたま2〜3年前に宮城県の温泉へ行って、帰りか行きだったかおもしろい町を発見したことがあります。村田という町だったと思うのですが、蔵が多い。町は整然とした碁盤の目になっていて、ちょうど祭りに出会ったのです。祭りの時には本当に町が元気になるものですね。そこでは蔵をその日に限ってかどうかよくわからないのですが、武家屋敷、武家といっても何か商売をしていたような蔵のあるうちなのですが、全部あけっ広げにして、見にいった人を中に招じ入れてお茶を出してくれる、そこまでやるわけですね。そういう例はほかにもあるかもしれませんが、私はそれをたまたま体験して、やっぱり町は外から来る人に開いて、招き入れる、丁重にもてなすという精神が必要だと思うのです。
 竹田市がそうなっているかどうかは、住んでいる方、あるいはここを訪れた方がきっとご存じだと思うのですが、心を開くだけじゃなくて、扉も開いて、始終開けっ放しというわけにはいかないでしょうが、特別に客を招き入れるというようなことが必要でしょうね。
 トンネルをくぐって町にはいること、ヨーロッパでいうとゲートですね、町のゲート、ただトンネルというだけでなく。あのゲートはもう少しゲートらしく工夫するといいと思います。それからせっかくの山は、ヨーロッパの都市でいうと城壁ですね。ヨーロッパの城壁の中には、城壁の上を散策できるようにしているのもありますし、工夫の仕方があると思うのです。既成の習慣、しきたりからちょっと離れて、発想を転換してみる。どういうアイデアが出てくるか、試みも大いにやったほうがいいような気がしますね。

政所 昨日岡城に登りまして町の灯を見て感動したのですが、中心の中にいて楽しくて、また少し離れて遠くから中心をながめて楽しめる。地形的にとても魅力的です。竹田は地形に恵まれていると思います。
13.会場との意見交換
質問者 桑野さんにお訪ねしますが、子供たちが安心して暮らせる町を願う女性の会代表ということですが、どのような活動をしているのかご紹介ください。

桑野 10年前に一度、湯布院に戻ってきたのですが、その頃「町づくりの湯布院」と言われながら女性達の声が聞こえてこなかった。男の人たちだけで町が動いているのではと思ったのです。そこで、若い仲間と一緒に「女性達は自分たちの町をどう考えているのか」「女性達の声を集めよう」と女性フォーラムを開きました。はじめて、表にでていない町に対する色々な思いを知りました。同時に町づくりには女性のそして色々な声が必要だと思いました。
 その後町を離れ、また4年前に湯布院に戻ってきた時、自分がどういう視点で自分の町を考えていくかをはっきりしていこうと思ったのです。自分の暮らしの中から無理のない声といいますと、ちょうど子育て中でしたので、その視点で町を見ていくと今まで見えてこなかったことがたくさん見えてきたのです。例えば、歩く町と言われながらベビーカーを押していたら、本当に歩きづらかった。湯布院は観光地といわれて非常にファミリー型なのですが、ただファミリーで利用するようなところがない。そういう状況の中で、その視点からこの町を考えていこう、そうすることによって仲間も、今まで30代の女性が比較的町のいろいろな会に出て来れなかったのですが、自分がその会を主催しますと、その年齢層が集まってくる。
最初は自分の子育ての話しかしていなかった人たちが、自分の子供のことだけでは何も変わらない、そういう人たちと話して町のことを考えていくと、その人たちが「やはりいい町じやないと子供たちは育っていかない。私たちの使命は町づくりだ」というようなことを言い始めたのです。
 今、活動は、地域の中で、自分たちの視点をちやんと伝えていく、そして女性でも学習をしていく。なかなか社会に出る機会のない主婦が自分の情報を持てないので、そういう情報を仕入れていく、視察にいく、いろいろな交流をしていく。町の中でいつも、何かの会があるというと、今まで行かなかった層ばかりなんですが、どういう会にでも行く、行って自分たちの発言をする、そういうことを繰り返し、まだ町の中でしております。

質問者 はい、どうもありがとうございました。実は私たちも竹田の町に女性の声が届いていない、風がトンネルの中だけで吹いていて、滞っていると感じています。住みづらさを感じていますので、やはり女性たちの声をもっと前面に出して、私たちが住む町をつくっていきたいなと、「夢の会」を開いております。皆様方とこうやって、この会にもぜひ「夢の会」からも女性が出ろということで参加をしました。桑野さんの今のお話はとても参考になりました。どうもありがとうございました。

政所 きょうは交流会という絶好のチャンスがあります。ぜひ夜遊びにたくさんの方が参加してくださるようにお願いいたします。逆指名というのがあってもよろしいでしょうか。阿蘇のはうで活躍していらっしやいます、先程、センスプロデューサーというような言葉が登場しましたけれども、阿蘇環境デザインセンターの若井さんいらっしやいますか。ご感想でも結構ですが。

若井 若井といいます。私のデザインセンターというのは、お隣の阿蘇郡の12町村が共同で町づくりを、地域づくりを進めようと、県に応援していただいている組織です。
 ちょっと話が飛びますが、長野県に須坂市というところがあって、同じ城下町ですが、そこの友人が私にこう言ったのです。「うちの町は人づき合いが下手で、隣の小布施は大変上手」と。これは要するに、数百年来、人とつき合おうと思っているところと、できればよその人に入ってきてもらいたくないところの差だと言うのです。
 実は私も東北の城下町の生まれ育ちなのですが、私はさっきのトンネルの話を聞いていて思ったのは全く逆の印象で、つまりあれをクローズするとだれもよそ者が入れない。私の城下町もそうでしたが、入ってきた人に気配を読まれない。そういうものが基本的には城下町だと思うのです。それだけにいろいろなものを蓄積していると思うんですが、それをどうやって、よその人に気配を伝えるか、そういうことが大事だとと思っています。あこがれとか、やる気とか、そういうものが気配となって伝わってくる、それをこれからどういうふうにこの竹田の方々が進めていかれようとしているのか、大変関心を持っております。
 そういう意味で、こういうシンポジウムが行われること自体非常に有意義なことだと思います。何せ私どもは真の在になりますが、阿蘇郡というのは城下町を1つも持っておりませんし、ぜひそういう町に変わっていただければと思います。また商店街も、楽市というのはどこの人が入ってきてもいいと思うのですが、そういう仕掛けをどのようにつくるかにも大変関心があります。桑野さんがおられますが、要するに道路改良とか、駐車場をつくらなくても300万とか、400万の人を集めているわけで、その辺の仕掛けをもう少し議論していただけると、僕らの関心とするとありがたいと思いました。どうも失礼しました。

政所 それでは大変恐縮ですが、持ち時間2分ないし3分で、これだけは最後に皆さんにお伝えしておきたいことをお1人ずつお話をお願いします。

14.おわりに

 町自体が見た目、元気な町が非常にすばらしいと思います。道をつくれ、建物を変えろとか、トンネルにこういう仕掛けをつくったらいいなどと、構造的な話ばかりしましたが、私の住んでいる東京の高円寺で、阿波踊り大会があります。これは30年ぐらいやっています。もともとの阿波踊りをまねして始めたのですが、今は非常に人が集まって、阿波踊り大会をやって、そこで人が踊っているときは、普段ばっとしない通りが、非常に華やいだいい町と思えるような通りに化けるというところがあります。だからといって竹田市に連日お祭りをやれとは言いませんが、建物を変えたりすること以外に、先ほどの市を出したり、お祭りに非常に力を入れるとか、催し物を着実にこつこつとやっていくだけでも町の活性化という道は開けていくのかな、という意見をもう1つ加え、終わりにしたいと思います。

佐藤 一番最初に3点を言いましたが、それに対する回答というか、私自身の考え方を。まず中心部の人口を、都市全体としてはなかなか増やすことは難しいと思いますが、例えば郊外に住んでいる農家の若い人が結婚すると便利なところに、例えば、竹田を離れてどこかへ行くことはよくありますね。ですから私は中心部に住宅を、魅力的な公営住宅など、そういうものをつくる。先ほど、低層・高密の話がありましたが、ちょうど私が学生時代に平良さんがされたいろいろなキャンペーンを覚えています、そういう低層・高密型の魅力的な住宅づくりを中心部でやっていただきたい。
 もう1つは、情報機能の整備。けさ、電子メールを見ていたら、アメリカに住んでいる、全く知らない人からEメールが入っていたんです。その人が英語の添削をしてやるから何かあったらおれのところにEメール送れと。その人はアメリカの本当に片田舎に住んでいるのです。詳しい話はまだしていませんが、田舎に住みながら、田舎のいいところを自分で享受しながらそこで生活するためにインターネットを始めた。そういうネットワークを使って自分が仕事をしている。情報機能を整備することと、中心部の魅力を高めることでTターンを受け入れていくことができると思います。
 3つ目は、竹田の中心街、500メートル掛ける500メートルという小さな町です。歩くことを基本として、車で来た人たちが、車を駐車し、歩ける仕掛けをつくっていかないと、歩くことだけを頭の中に置いておくと、ちょっと道を誤るという感じがします。
 それから公共施設を中心部からこれ以上外に出さない。今、農協とか市役所も外に出ているんで。あるいは公営住宅も外で大量な開発をしていますが、可能ならばというか、できる限り中心部で公的な投資を集中してやってほしいと思います。

桑野 ちょっと矛盾するのですが、実はこのままの町で残っていってほしいなというのが本音なんですね。でもこれはどちらかというと、観光客気分ですので反省しまして、やはりこの町がますます変わっていくことを期待しています。私、よく地方に行って思うのですが、大人が子供たちにこの町はだめだとか、仕事は大変だとか、その町の悪いことばかりを言っていると感じるのですが、そんなことを言われて育った子供たちは、絶対その町に大人になって帰ってこようと思わないのですよね。思わないし、やはりふるさとが大事なふるさとでないと思うのです。ぜひ大人の私たちは、次の世代に町のいいところを伝えていく、そして子供とともにまた町を再発見していく。町は再発見するだけいろいろな可能性があると思っています。私自身がいつも思うのですけど、なかなかもう大人を変えるのは無理なのですよね、町の中で、意識を。でも次の世代は変わっていくのです。ですから未来に期待したいと湯布院の町でも思っています、竹田は大丈夫でしょうけど。

平良 田園都市という思想というか、着想ですね、これはエベニザー・ハワードが19世紀の終わりに書いた本が日本でももう10年以上前に翻訳されています。その中にアメリカの文明評論家のマンフォードも文を寄せています。その中でハワードの思想は、タウン、都市の磁石と、カントリー、田園の磁石というように人が集まるところには磁場がある。人を引きつけていくものがある。ハワードが提案している田園都市は、タウンとカントリーを分けて考えるのでなく、この2つが両方の魅力を持って結婚するんだ。結婚して1つのホームをつくるんだ。そこに一番のポイントがある。これは大都市では不可能です。小さな1万とか2万とか、多くても5万とか6万とかという町が単位になる。この町で言えば、市街地だけの中心と言わずに、山の向こうの農耕地帯の農業を営んでいる人たちがいるわけで、やはりそことのがっちりした交流というのか、組み込んで、町の同じ市民としてある共通の事業を起こしていかなければいけない。小さい町こそ、将来の町の基本的な単位であるという考え方を徹底していくのがいいんじゃないか。私はそう考えております。

 規模からいうと、ここの町のスケールは、2万を割っているといいますけれども、3万、4万に増えてもいいのです。それ以上はふえないほうがいいと思いますが、そういう適正規模というのかな、そういう町はとても魅力的だと思います。21世紀の新しい都市になってください。

吉野 人口減少時代、これはもう日本国全体がそうです。大都市も人口減少、あるいは商店街縮小時代という。では逆に商店街のお店が3割、2割になってから復活した例はあるかというと、これは結構あるのですね。そういう例は、おととい長浜に行ってきましたが、長浜は大観光地になりすぎて、いかに団体客をこれから拒否しようかと考えられるような状況になっています。長浜は10年ほど前に行ったときに、それこそ平日に行けば、1時間いても買い物客が2〜3人しか通らないという悲惨な商店街だったのです。自然発生的に成長し、成熟し、衰退し、また成長するという、成長して死んでいく。先程元気に死んでいくという話がありましたが、そうでなく元気に老いていく時代というのがあるのですね。それが成熟期のあり方だと思うのです。その次、老いた後、人間であればそこで死を迎えるわけですが、町は死なないのです、そこから伸びていく時に何が必要かというと、よそ者なのです。外部の血といってもいいのです。よそ者をうまくだまして定住させる、あるいは引っ張り込んでくる。あるいは通りがかりのよそ者をひっかけてしまう。これは全国の発展した町をよくよく皆さん研究されると、だれがやっているかというと、ほとんどよそ者だ。かくいう大阪の歴史も調べてみたら、大阪をつくったのはほとんどよそ者であります。大阪生まれの人で、大阪に頁献したというのはあまりないのですね。
 都市はすべからく外部の人をうまく使うのが都市、小都市といえども同じだと思うのです。そういう意味では、これからうまくそういうよそ者というか、外部の人をたぶらかすような、竹田市であってほしいと思います。

政所 どうもありがとうございました。従来型の整備手法から脱皮して、独自の魅力を磨きあげる必要がある。精神的な求心性を備えた地域づくりの顔をつくる。そして街は規模でなく、21世紀には小さな町の単位こそ重要である。そういうところこそ次世代型のヒューマンな町であるというようなご提言もございました。21世紀といっても、目の前です。目前にやってきました来世紀の町を考えるときに、改めて中心街をキー概念にしていく重要性が再確認できたのではないかなと思っています。まさしく縦割り行政を打破し追求する21世紀の共通テーマ。次世代型テーマとしての中心街形成ということではなかったかと思います。まとめにはなりませんが、ぜひ明日、竹田の街を歩いていただいて、皆さんこそが竹田市のサポーターとして、またお互いに街のサポーターとなっていくということからスタートしたいと思います。存分に竹田市を味わっていただきたいと思っています。どうもありがとうございました。