この「歴史・景観と竹田のまちづくり」は、1994年12月21日に、岡の里事業実行委員会の主催で開催しました、
『まちづくりフォーラム・竹田のまちの未来像』
において、基調講演したものです。
 
 
 
「歴史・景観と竹田のまちづくり」
(C) Seiji SATO
 
 
竹田市・「歴史の道」滝廉太郎記念館前
 

1.まちづくりの潮流
 まず最初に、まちづくりの潮流といいますか、まちづくりが今どういうふうに動いているのか、潮の流れはどうなっているのかということを話していきたいと思います。
 結論から先に申しますと、今のまちづくりというのは「歴史の継続性」というものが、非常に重視される時代になってきているということ、それからもう一つは「自然との共生」、つまり自然と如何に共に生きていくのかということ、この二つが都市的な開発の中でもキーワードになっていると私は考えています。
 先日、学会があって東京に行きましたけれど、その時に「恵比須ガーデンプレイス」という、今東京で非常に注目を集めているまちづくり再開発を見てきました。そこはとても現代的なまちづくりを進めているわけですが、そのまちづくり再開発の中で、建物の再現というようなことを行っているのです。もともと恵比須には、エビスビールというビール会社の工場があったのですが、その工場の建物を復元するというようなことをやっているのです。再開発の目的からいうと、そういうものが仮になくても、形としてはうまくできあがっていきます。
けれども、やはりそこには歴史の継続性という、そういうキーワードが盛り込まれているわけです。工場の形を復元しながらのビアガーデンであるとか、恵比須駅にアプローチするための拠点づくりをやっているわけです。先ずは「歴史の継続性」ということで、最近の事例としてお話しておきます。

2.全総に見るまちづくりの方向
 自然との共生、あるいは歴史の継続性というようなことを、非常に唐突ではありますが、全国総合開発計画という日本の開発計画の大本締めになっているプラン、いわば国家の計画と位置づけてもいいわけですけれども、それを見ながら何故私の申しますところの歴史の継続性なり、あるいは自然との共生が出て来たかということを、若干見てみたいと思います。
 全国総合開発計画は「全総」というふうにいわれ、現在は第四次の計画期間中で、近年、第五次の全国総合開発計画が策定される予定になっております。第一次の全国総合開発計画というのは、昭和37年に策定されましたが、これは戦後復興から高度経済成長へ向かうという、社会的な背景の中でつくられたプランでして、そのプランの性格を一言でいうならば、拠点開発方式というものでありました。大分市の海岸部に新日本製鉄だとか、あるいは昭和石油、九州石油、昭和電工など、そういうような企業が出て来たのも、実はこの拠点開発方式による新産業都市に根拠があるわけです。
 それから第二次全国総合開発計画、これは「新全総」といわれまして、昭和44年に策定されています。第一次の計画は拠点開発方式で、新産業都市を全国にたくさんつくりましたが、第二次の計画が出された昭和44年というのは、高度経済成長のまっ直中にあるわけで、その時に出て来たのは何かというと、大規模開発のプロジェクトと交通通信ネットワークというふうなものです。高速道路を全国に張り巡らすというようなことが、この頃から国の大きな計画課題になってきたというところであったわけです。
 ところで第一次と新全総、この二つの計画を通じて皆さん方、思い当たるところがあると思いますが、いわゆる自然の破壊、どんどん工場をつくつていく、廃液を流すの全国総合開発計画というのは、昭和37年に策定されましたが、これは戦後復興から高度経済成長へ向かうという、社会的な背景の中でつくられたプランでして、そのプランの性格を一言でいうならば、拠点開発方式というものでありました。大分市の海岸部に新日本製鉄だとか、あるいは昭和石油、九州石油、昭和電工など、そういうような企業が出て来たのも、実はこの拠点開発方式による新産業都市に根拠があるわけです。
 それから第二次全国総合開発計画、これは「新全総」といわれまして、昭和44年に策定されています。第一次の計画は拠点開発方式で、新産業都市を全国にたくさんつくりましたが、第二次の計画が出された昭和44年というのは、高度経済成長のまっ直中にあるわけで、その時に出て来たのは何かというと、大規模開発のプロジェクトと交通通信ネットワークというふうなものです。高速道路を全国に張り巡らすというようなことが、この頃から国の大きな計画課題になってきたというところであったわけです。
 ところで第一次と新全総、この二つの計画を通じて皆さん方、思い当たるところがあると思いますが、いわゆる自然の破壊、どんどん工場をつくつていく、廃液を流す そしてその時期に、自然環境、あるいは歴史環境の保全をやっていくという、一定の潮流が生まれてきております。例えば伝統的建造物群保存地区が、都市計画の中で出て来ました。伝統的な建築、あるいは町並みがあるところについては、大量に調査が投入されるというふうなことが起こりましたし、それからそうしたものを受けるような形で、1978年(昭和53年)には都市景観形成モデル都市というものが、全国的に多数指定されるというようなことがありました。当竹田市においても、景観形成モデル都市の第一次に指定され、都市景観ガイドプラン、地区景観ガイドプランといった、景観形成の基本的な計画がつくられているわけです。
 民間サイドでは、例えば大分では大分合同新開で「街並みとまちづくり」という記事が、非常に長期にわたって連載されました。そういうふうに自然環境、あるいは歴史環境の保全、それからこれをまちづくりに活かしていくという一定の潮流が生まれてきたわけですが、なにせ高度経済成長による自然破壊等が非常に大きな問題でして、そうした潮流をバックにした地方定住圏構想というのも、なかなかうまく行かないという状況があったわけであります。一時期、東京への人口一極集中が止まりかけた時期があったわけですけれども、やはりその後の動きを見てみますと、東京への集中というのが若干揺り戻している感があります。つまり、大きな流れとしては変わっていかないというようなことが続いてきたわけです。
 その後、一番最近の全国総合開発計画であります「四全総」が、昭和62年に策定されました。「三全総」の定住圏構想がなかなかうまくいかず、東京への一極集中がまた揺り戻していくという中で、四全総を性格づけているキーワードは、「多極分散型国土の形成」ということなんです。これもなかなかうまくいってないというような指摘があるわけですけれども、いずれにしても東京への一極集中を防ぎ、多極分散型国土を形成するというような中で地方の環境を見直していくという、非常に大きな潮流をつくつていこうとする施策が、国の中にあったことは事実であります。
 現在は第五次全総策定のために調査が行われておりますけれども、おそらくその目玉になると思われますのが、先ほど申しました自然との共生、あるいは歴史の継続性というようなまちづくりの発想、国づくりの思想といいますか、そういうものが私はあるんではないかと考えております。
 それに加えてもう一つに、「新国土軸」という大きな構想があります。これは平松大分県知事が、非常に声を大きくして提唱しているもので、当初は東海から山陽にかけての既存の国土軸、第一国土軸と申しますか、この軸に対して「第二国土軸」といっておりました。現在は九州から四国、伊勢湾口へと伸びる国土軸、それから日本海沿岸を貫く国土軸、東京から東北の方に抜ける国土軸というようなものなど、三つほどの第二国土軸、いわば第二、第三、第四国土軸というふうなことになるかも知れませんが、そうした国土軸が提案されています。
おそらくこの国土軸の提案が、もう一つの国の大きな動きとして出てくるだろうというふうに考えられるわけです。
 そういった一連の国の動きをずっと追ってみますと、今までの動きといいますか、初期の動きというのは、飯を如何にして食うかという部分に、非常に大きな力が注がれていることがわかります。いわゆる経済的な規模を大きくする、パイを大きくするという発想、これが一番最初の頃の国の計画であったわけです。ところが現在はどういうふうになっているかと申しますと、先ほどいったように、精神的な心の満足感を如何に達成するのか、というような形でのまちづくりに大きく転換しています。歴史の継続性、あるいは自然との共生というようなことで、精神的な心の満足感というのを如何に達成するかというところに大きくシフトしている、重心を移しているということができます。非常に唐突ではありましたが、全国総合開発計画というものを見ながら、現在のまちづくりは歴史の継続性と自然との共生という、大きく二つの方向性を持って動いているというようなことをいったわけです。
 またもう一つの大きな動きとして挙げております新国土軸、第二国土軸といわれるものですが、これも実は文化だとか歴史だとか自然、そういうものを非常に大切にする思想がその中に含まれていると考えるわけです。先ほど申しましたように、第二国土軸というのは三つ提案されておりまして、九州から四国にでて伊勢湾口に至る太平洋新国土軸、東京から北の方に抜けていく東日本新国土軸、それから日本海沿岸を走る日本海新国土軸というものがあります。この新国土軸の意味は何かと申しますと、実は今まで非常に大量の公共投資が日本国土の中に展開されてきたわけで、その公共投資、これを別ないい方をすると、まちづくりを空間化するといっていいのですが、そのために既存の第一国土軸では容量が一杯になってしまっている、もうこれ以上展開するのは無理だということを意味しています。そうした中で第二、第三、あるいは第四国土軸をつくりながら、公共投資というものを空間化していくということをやっていかなければならない、そういう必然性があったわけです。
 国土軸を一言でいい表そうとしますと、例えば交通ネットワークですとか、あるいは通信ネットワークなどという発想にすぐいってしまうのですが、国土軸の重要な要素の中には、文化や歴史に対する軸の考え方が大きく取り上げられています。実はこういうふうな部分が、非常に大事なんだということを強調しているわけです。ただ単にネットワークがつくられても、そこにネットワークをうまく利用するという、そういうニーズが発生しない限りは、その交通通信ネットワークはほとんど機能しないということであります。そうしたものをうまく機能させるためには何が必要かと申しますと、やはりその国土軸を豊かに彩る地域の形成というのか、小さくても光る町がその軸の中に散りばめられていないと、国土軸というのはほとんど意味をなさないと思われます。
 そういうふうなことからこの国土軸を見てみますと、歴史ですとか文化、自然、景観というものが重視された町、そうしたものが実は非常に大きな意味を持ってくるわけであります。こういう国土軸の中に位置づけられる町というのはどういう町なのかといいますと、よくいわれておりますように、いわゆるミニ東京というのはやはり駄目で、どこにでもある町をつくっていくというようなことは、ほとんど意味をなしません。要するにその固有の文化、あるいは歴史、自然、景観というものを如何に織り込んだ町、アイデンティティを備えた町を如何につくるかということが、非常に求められている課題であるということができます。

3.空間的コンテクストの重要性
 1991年から92年(平成3年から4年)にかけての一年間、読売新開に「ふるさと町並み考」という題で連載された記事があります。実は私も記事を書いているわけですが、九州、それから西中国地方の建築を中心とした研究者約10ほどで、分担を決めて書いたわけです。私は大分では、竹田、中津、杵築、玖珠、佐伯を担当して書いています。この連載の一貫した立場というのは何だったかというと、町並みという空間が持っている歴史性ですとか、自然や人の営みなど、こういうものが総体となって景観をつくっていくわけですけれども、そういうものが如何に新しいまちづくりに組み込まれるべきなのか、というふうなことを一貫して書いているわけです。ただ問題は、素材が違えば組み込み方も違ってくる、従ってその地域に対する認識が深くないといけないということです。
私は大分に住んでいますし、特に竹田のことについては非常に思い入れもあったものですから、これに書かせていただいていますが、竹田には素材は非常にたくさんあります。それを如何にまちづくりの中に組み込んでいくのか、その組み込み方自体についても、やはりその地域の特異性というものがあるわけです。一つに「歴史の道」というのが非常に強調して書かれておりますけれども、そういう素材の活かし方について議論をしていくというのが「ふるさと町並み考」の非常に大きな特徴としてあるわけです。
 しかし、これを書いた人たちというのは、プランニング、計画をやっていく立場の人が非常に多かったわけで、私もその一人ですけれども、かたくなに保存していくという立場ではないわけであります。何が何でも残せばいいというような立場をとっているものではありません。歴史の継続性ということを先に申しましたが、歴史というものが連続しながら、変化をしながら発展していくという、そういう歴史の流れをきちんと踏まえておかなければならない、そういうことがいえるのではないかと思います。
 竹田はこの記事の中にも書いておりますけれども、私は「歴史の香炉」であるといっています。だいたい500メートル四方の町の中に、非常にたくさんの歴史的な遺構がある、町並みがある、お寺があるというふうなこと、それに加えて岡城という非常に立派な城跡があるなど、大変密度の高い歴史的な空間であるといえます。しかも香の豊かな、芳醇な香のする、そういう町であるということで、「歴史の香炉」というふうに形容したわけです。今回のこの「まちづくりフォーラム」に際しまして、主催者の「岡の里事業実行委員会」から、本委員会が発行しております「竹田の寺」という本を送っていただきましたが、これを見て私はまた非常にびっくりしました。人口が二万人に満たないこの町の中に、これほどえております。ただその場合に一言強調しておさたいのは、少し難しい言い方になるかも知れませんが、「空間的コンテクスト」、空間的文脈といっていますが、その空間的な文脈を忘れないでほしいというふうに思うわけです。要するに、それがそこに相応しいのか、その機能で相応しいのか、あるいは形態として、また大きさも含めてそれが本当にそこに相応しいのかどうか、常にそういうことを考えてプランニングをしなければならないということです。これを「空間的コンテクスト」といっているわけです。
 少し話は横道にそれますが、最近ちょっと毛色の変わった研究を私の所ではじめていまして、これは中国で生まれ、朝鮮で発達した思想で、風水地理説などといっておりますけれども、日本では沖縄で非常に発達した思想です。むしろ思想というよりも、生活スタイルにまで根ざした考え方で、家の建て方からお墓の位置まで、その土地や位置で相応しいのかどうかなど、何から何まで徹底して吟味するというのが風水思想なのです。
 今から何年も前になりますけれども、高松塚古墳が発見された時、古墳の中に四つの神様を、東西南北の四方に絵として描かれてありました。これを四神相応といっているわけですが、墓をつくる時に四つの神様が回りにあるのかという、そういう地の相を徹底して吟味するというやり方です。
例えば昔の藤原京ですとか、平安京、平城京、長岡京、難波京などの都がありますが、これは当時の天皇が死ぬと京を変えていたわけです。その時に、その都市をつくる場合に、四つの神様が回りに居るのかどうかということを、徹底的に吟味したのです。
北に山があり南に低い土地がある、西側に道路が走り東側には川が流れているというょうな、これを四つの神様が回りに居るということで、四神相応といっているわけです。これもやはり空間的コンテクストというものを、如何に昔の人が大事にしたのかということがわかる事実なんだと思います。
 中国で生まれ、朝鮮で発達したこうした風水思想というものは、日本国内ではあまり発達しなかったのですけれども、沖縄で非常な発達を遂げておりまして、私はこの研究をこれから手掛けていこうと考えています。土地の形状をはじめとする、諸々の情報をコンピューターに入力して解析してみようというものです。これは余談ですが、風水思想の専門家からこの研究に対して、とんでもないことだといわれたのですが、後にその方から、よく考えてみると大変立派なことだ、との手紙をいただくということもありました。
 空間的コンテクストというのが大変重要だということをいうために、若干話が横道にそれてしまいましたが、その空間的コンテクストということを踏まえて、竹田の歴史的な財産を活かしながらまちづくりを進めていくということが非常に大事なことなのです。そこに風水思想を入れろというようなことはいいませんが、そういう考え方が大切だということであります。
 竹田のまちづくりを進めるにあたって、以前こういうことを聞いたことがあります。おそらくこれは、市の総合計画の中にも書かれているのではないかと思いますが、今の旧市街地、だいたい500メートル四方の町ですけれども、これを歴史的な空間として保存していくということです。しかし歴史的な空間を保存していくということだけでは駄目で、やはり町は未来に向かって動いていかなければならない部分もあるわけです。
 こうしたことから、旧竹田市術地に隣接する玉来地区については未来都市といいますか、未来のまちづくりをやっていく。そして旧市街地の歴史的空間と玉来地区の未来的な空間を結ぶ道路、これを「タイムスリップロード」と呼ぶわけですが、そうした道路を整備する。この発想というのは、歴史的な空間というものを際立たせるためというか、それを徹底して光らせるためにつくられるわけですが、そこにはやはり未来都市が必要だということです。そして未来都市を光らせるためには、歴史的な町がきちんと整備されていかなければならない、そういう補完関係があるわけです。加えて、新市庁舎の建設された七里地区については、新しい公共施設ゾーンとして整備するというような、こういう考え方がされるわけです。
 私はやはり、そうした考え方に徹底的にこだわっていく必要があるのではないかと思うわけであります。中心市街地の歴史的空間というものに徹底的にこだわっていくということ、歴史にこだわるということは過去と未来をつなぐ行為に他ならないわけでありまして、この行為そのものが新しい歴史をつくつていくということになると、こういうふうに思っています。

4.マルチメディアとローカリティ
 ところで、今年はマルチメディア元年といわれていますが、マルチメディアというのは何かといいますと、音や画像、それから文字など、そういうものを光ファイバーを通して情報交流をするという一つの技術です。そういうマルチメディアの時代というのが今から先、大きく前進していくわけですけれども、そういう時に、例えば竹田という町が非常に大きな意味を持ってくるのではないかと思っています。それは何故かと申しますと、マルチメディアの時代に有効に機能するのは情報発信力なんです。
情報発信力というのは何かといいますと、強烈な特色というか、アイデンティティーというか、ローカリティーなのです。非常に地域性があるということなのです。こうした地域の自然なり、あるいは歴史という地域の特色を、きちんと踏まえてまちづくりをやっているかどうか、これが大きな意味を持ってくるわけであります。
 マルチメディアというのは誰でもアクセスでき、月の上からでもアクセスできるという、非常にグローーバルな技術です。そのグローバルな技術の中で一番意味を持つものが、強烈なローカリティーであるというふうに私は思っています。
 ですから竹田の町が、その強烈なローカリティーといいますか、地方性を維持しなければならない。そうすることがこのマルチメディアの時代に非常に大きな意味を持ってくるということ、これを最後に強調しまし私講演を終わりにしたいと思います。長時間ご静聴ありがとうございました。